ラス・メイヤーと世之介オフィス

2005-04-02 samedi

梅田の東映本社試写室でワーナー配給のキアヌ・リーブス主演の「宗教映画」(っていうんだろうな、やっぱり)『コンスタンティン』の試写を見る。
試写室というところで映画を観るのははじめてである。
「ギョーカイ」の人たちがぱらぱらと来ている。
あとでワーナーのババさんに訊いたら、メディアの映画欄担当の人だそうである。
「お仕事」で映画を見ているわけなので、みなさん、なんだか「だるそう」であった。
私ははじめての試写室なのでわくわくしてしまって(映画館で映画を見るときはいつもそうなのだが)隣のタニグチさんにいろいろ話しかけてひとりでくすくす笑っていたら、「ギョーカイ」の人たちから「なんだよ、この場違いなシロートさんはよ」的な冷たい視線がびびびと飛んできて頬がちくちくした。
映画については…『エピス』を読んで頂くということにして。
終了後、タニグチさん、ワーナーのババさんにご案内されて「読賣新聞のご接待」で北新地へ繰り出す。
読賣新聞広告局の「きれいどころ」のおふたりが現地で合流、こちらも仕事帰りのドクター佐藤、IT 秘書イワモト両君が登場して、なんだか「合コン」状態となる。
両君以外は全員「映画関係者」であるから、さっそく美酒美食を頂きつつ、ひたすら映画について話しまくる。
いろいろな話題が出たのであるが、ラス・メイヤー話がいちばん受けた(といっても映画を観ているのは私だけなんだけど)。
一本だけ見ると「あくびが出るほどスカ」(でも巨○がいっぱいでてくるから、それを見て我慢する)。二本見ると「あれ、これは…?」的疑問が随所に感じられ、三本見ると「なんか、ずいぶん徹底してるねえ」的畏敬の念が生まれ、四本目からあとはどのシーンを見ても「くすくす笑いときどき痙攣的爆笑」ということになる。
どうしてこういうことになるかというと、ラス・メイヤー映画の主演の好色巨○女優たちは全員「同一人物」だからである。
「悪徳警官」も、「マッチョな土方」も、「うぶな青年」も、「インチキ医者」も、「好色看護婦」も、全員が(名前や設定は違うけど)本質的に「同一人物」なのである。
これはゾラの『ルーゴン・マッカール叢書』やバルザックの『人間喜劇』と同じ結構だ。
ゾラやバルザックは19世紀の遺伝学的知見を踏まえて、環境と遺伝子的素因の違いがさまざまな生物種を生みだすように社会の淘汰圧が生みだした「人間の変異種」を網羅的に記述することを、彼らに課せられた仕事だと考えた。
ラス・メイヤーの映画群は「典型的に偏った人物たち」が人生のさまざまな状況においてどのような運命をたどるかを描いている。
ラス・メイヤーはその意味で「現代におけるゾラ=バルザック」的存在だということができるであろう。
ただし、ラス・メイヤーは「環境的=遺伝的素因」として「性欲」しか見ない、というところがちょっとだけ違う。
人間を条件づけるものが「性欲だけ」というところがすごい。
ふつうは「色と欲」というくらいで、どんな社会的にマージナルな人間でも、「性欲」のほかに「金」や「名誉」や「威信」をほしがるものだけれど、ラス・メイヤー映画に出てくる人々は全員「性欲」しかない(バルザック作品の登場人物の多くが「金」ばかり求めているのとは逆に)。
お金がからむ話もなくはないが(『ファースター・プシーキャット・キル!キル!』や『カモンロー・キャビン』)、そういうときでも「札束」はまるで「撮影されることをはばかられる禁じられた表象」であるかのように、瞬間的に「ちら」っと映るだけである。
つまり、ラス・メイヤー映画においては、表象的な水準で言えば、「巨○」がふつうの映画における「札束」で、「貨幣」がふつうの映画における「恥部」なのである。
まことに変な映画である。
ぜひ若手の研究者による本格的なラス・メイヤー論の登場を望むものである。
私が書いてもいいのだが、キータームである「巨○」が(本サイトの倫理コードにより)一字伏せ字となっているので、それもままならぬのである。

河岸を変えたあとは、ババさん(日本クリント・イーストウッド・ファンクラブの事務局長なのだ)とクリント・イーストウッド話に耽る。
ババさんのクリント映画のオールタイムベストは『ブロンコ・ビリー』(渋い!)
私は考えたすえに、『ダーティ・ハリー』を選ぶ。
私の基準は、クリント・イーストウッドの最大の魅力であるところの「まぶしそうな眼」をする表情の「決まり方」(『ダーティ・ハリー』では撃たれた同僚を見舞いに病院に行ったハリー・キャラハン刑事が階段を下りながら同僚の奥さんと話をして、日陰から日向へ出たときの「まぶしそうな眼」がとってもステキ)。
『荒鷲の要塞』で国防軍の制服を着て機関銃を発射する寸前の「まぶしそうな眼」も捨てがたい。
生ハムチーズなどを囓りつつ、かぱかぱとウイスキーの杯を重ね、よしなき映画の話だけをするという至福の時間であった。
でも、こういう「ご接待」ばかり味わっていると、人間が増長して、だんだん「ダメ」になりそうである。
たまに、にしておこう。

四月一日、新学期となり、本日をもって教務部長職を拝命する。
D館の教務部長オフィスに行って、まずは「ネスプレッソ」をセッティングして、エスプレッソを一杯作る。
美味である。
次に、山本浩二画伯の作品二点を飾る。
なんとなく「マイ・オフィス」っぽくなる。
次に、机の上に重ねてある「未決」書類にはんこを押して「既決」箱に入れる。
研究室から資料ファイルを運んできて本棚に並べる。
メールボックスに入っていたメモと DM を開封してどんどんとゴミ箱に放り込む。
捨てなかったのは「辞令」と会議の通知と時間割表だけ。
XP を載せたノートパソコンを買って貰ったけれど、まだ LAN に繋いでないそうなので、使えない。
することがないので、今日はこれでおしまい。
D 館にはウッキーも教育開発センターの新人職員として本日から勤務している。
「フルハシと申します、よろしく」
「あ、ウチダです。どうぞお見知りおきを」
とご挨拶する。
D 館を見回すと男性職員がぜんぜんいない。
事務長以下三人しかいないそうである。あとはぜんぶ専任も派遣もバイトもぜんぶ女性。
「世之介」オフィスである。
オルテガの話の続きを書くつもりだったが、これから歯医者に行って、それから合気道の稽古で、そのあと神戸新聞の取材なので、続きは夕方、仕事が終わってから。
ところで、私たちの世代は「オルテガ」という哲学者の名にある種の親しみを感じて発語することを禁じ得ないのだけれど、若い人はご存じあるまいが、それは「ジェス・オルテガ」という太ったブラジルのプロレスラーが力道山の「敵役」で毎度空手チョップで倒されていた 1950 年代末の世代的記憶の効果なのである。
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