サンヘドリンの法理

2005-03-31 jeudi

「もともと存在していたのだが、新しい理説の登場によって主題化された事象」と「最近になって出現したもので、それを説明するために新しい理説が要請された事象」をみわけるのはむずかしい。
アメリカにおける「ミソジニー(女性嫌悪)の文化」について調べたときに、そう思った。
フェミニストたちはふつう「ミソジニーはほとんど人類の歴史と同じだけ古いが、フェミニズムがその〈意識化されなかった事実〉を前景化した」というふうに説明する。
アメリカ映画にみられる女性嫌悪の変遷に興味をもったときに、私は「それはちょっと違うんじゃないかな」と思った。
アメリカのミソジニーはどうも「アメリカ固有のもの」のように思えたからである。
あそこまで病的に女性を嫌い、憎み、蔑む文化と同種のものを他の社会に見出すことはむずかしい。
ジュディス・フェッタリー(私が知る限り、リュス・イリガライとならんで「息を呑むほど頭の悪い」フェミニストのひとり)と私は、なぜかこの点についてだけは同意見なのである。
フェッタリーによれば、アメリカ文学はその発生の瞬間からすでに女性嫌悪的であった。『リップ・ヴァン・ウィンクル』から始まるアメリカ文学全史は「アメリカ文学における登場人物とテーマの古典的言説」つまり、成熟を拒絶する男と、その「快楽の成就を邪魔する女」という「根本的にアメリカ的な」説話原型を飽きることなく繰り返してきた。
私はフェッタリーのこの読み方にはとくに異存がない。
だが、なぜ、そういう説話原型がとりわけアメリカに根づいたのか? このような特異な性文化が成り立つにはどのような歴史的的事情があるのか? という問いを彼女が自分に向けないことを不思議に思うのである。
かりに、私たちの知り合いのうちに「女嫌い」の男がいて、ことあるごとに「私の自己実現はつねに女によって妨害されている」というような話をして回っていた場合、私たちは彼が執拗に反復する女性嫌悪的言動を「あそこでも言っている、ここでも言っている」と逐一報告するよりも、「どうして、彼は女性嫌悪的な人間になったのだろう」という「起源」をめぐる問いについて考えることの方に知的な興味を惹かれるだろう。
少なくとも、私はそちらの方に興味がある。
しかし、フェッタリーはアメリカにおける女性嫌悪の「事例の羅列」にはたいへん熱心であるが、その「起源」については何の関心も示さない。
フェッタリーはアメリカにおける女性嫌悪の起源を「西欧文化全体」(おそらくその先には「人類文化全体」があるのだろう)に先送りして、あっというまに話を終わらせる。
たしかに、「西欧文化全体」が女性嫌悪的であるなら、ヨーロッパからの移民たちを中核とするアメリカ文化が女性嫌悪的であるのは怪しむに足りない。
「西欧文化全体」が女性嫌悪的であるなら、「なぜ、アメリカでは・・・」という問いが立てられるはずもない。
しかし、このような問題の処理の仕方こそ実に「アメリカ的」だ、という印象を私は拭うことができないのである。
ご存知の通り、「アメリカでは・・・である」という事態について、それを厳密な検証手続き抜きで、「世界全体では・・・である」というふうに拡大適用すること、これは現代アメリカ人に固有の思考上の「奇習」であると申し上げてよろしいかと思う。
私がフェッタリーに感じる印象は、私が彼女たちの国の大統領に感じる印象に少し似ている。
それは、「アメリカの問題」はただちに「世界の問題」であると信じ込めるそのナイーブさである。
「アメリカの問題」とは、「特殊アメリカ的な原因」から派生した「アメリカ固有の」問題であり、その処方は風土病のワクチンがウイルスの発生地で作られるように、彼ら自身の内側を覗き込むことによってしか発見できないのではないか、という内省の視線がここには構造的に欠落している。

というような話をしたいわけではない。

昨日の「階層化=大衆社会」の話の続きをしようと思っていたのである。
「学びからの逃走」(@佐藤学)を使嗾し、「学びから降りるものを自己満足・自己肯定に誘うメカニズム」(@苅谷剛彦)は「昔から存在したけれど、こういうことばでは主題化されたことのなかった事態」なのか、それとも「最近になって特殊日本社会にのみ出現したまったく新しい事態」なのか、その見きわめがたいせつなような気がしたのである。
メディアの論調を徴すると、ほぼ例外なく、すべての論者が後者の、つまり「これは最近になってあらわれた日本に固有の現象である」と解釈する立場を取っている。
さきのフェッタリーの場合のちょうど逆である。
彼女はミソジニーが「最近になって特殊アメリカ社会にのみ出現したまったく新しい事態」である可能性の検証への手間を惜しんだ。
同じように、「階層化社会論」を語る人々は、これが「昔から存在した、もしかすると人類と同じくらい古い、ある種の無意識的な社会的行動」の21世紀的変奏ではないか、という解釈可能性の吟味にはあまり時間を割く気がないようである。
「すべての論者が同一の前提を採用する」場合には、「それがどれほど説得力のある前提であっても、前提そのものを疑う反論を準備せよ」というのは、ほかならぬレヴィナス老師の遺訓である。
私は老師の遺訓にはつねに忠実である。
だからといって、私は「階層化社会論」に反対なわけではない。
これまでの祖述から知られるように、私は彼らの現状分析のほとんどに同感である(示される政策的対応については、必ずしもその効果に期待してはいないけれど)。
私がとくに先賢の驥尾に付して発言するほどの情報をもたない以上、私ができる「お返し」は、とりあえず彼らが「しなかったこと」(例えば、彼らが採用している「自明の前提」そのものの「確かさ」をチェックすること)をすることだろう。
いまの「ニート論」や「希望格差論」の基調にあるのは「不況」という与件である。
経済がぱっとしない。
コスト削減のプロセスで、新卒者の求人が減り、終身雇用・年功序列システムも崩壊した。
高齢化・少子化で年金医療福祉を支える財政的基盤が崩れ始めている。
それに対する政策的対応として、ほとんどの人が(意識的と無意識的の違いはあるけれど)「問題は金だ」という結論にたどりつく。
このまま放置しておくと、いずれ年金・福祉・失業対策・生活保護・治安維持に要する莫大な社会的コストで日本は財政的に「沈没」してしまう…
そういう予測が共有されている。
これは「特殊日本の問題」であり、特殊日本の問題には特殊日本的な解法しかない。
それは「金」だ。
すべては「金がない」ことに起因しており、それゆえ「金さえあれば」万事解決。
そういう考え方が(たぶん多くの場合は無意識的に)刻下の議論には伏流しているように私には思われる。
「机上の空論はやめろ。現実を語れ」と声を荒立てる人が言うことは、最終的にはいつも「だから、金が要るんだよ」という結論に落ち着く。
これはほとんど例外がない。
そして、彼らの政策構想は「では、どうやってその金を工面するか?」というたいへん実際的な方向に進んでゆくことになる。
「金がない」のが人間の不幸の主因で、とりあえず「金さえあれば」問題は解決(ないしは先送りできる)。
だから「もっと金(あるいは就業機会を、あるいは自己実現のチャンスを、あるいは私の個性的ふるまいを理解し尊敬するような価値観を…)を」という点については、右翼も左翼も経営者も労働者も父権制主義者もフェミニストもほとんど言うことに違いがない。
だが、むしろ「こういう考え方そのもの」が現在の危機的状況を「生み出した」ということはないのか。

その可能性について考えてみたい。

私が昨日オルテガを引いたのは、いま日本で起きている事態が、どことなく75年前のスペインに通じているように思えたからである。
オルテガが『大衆の反逆』を書いた大戦間期のスペインは、戦後不況の構造的危機のうちにあり、各地で労働者農民の反政府的活動が暴力化し、軍隊や官僚は右翼的に党派化し、カタルーニャやバスクで属領モロッコで独立運動が激化していた。
つまり、ブルジョワと労働者農民、左翼と右翼、都市と農村、宗主国と植民地…というあらゆる水準で政治的・文化的な「分極化」が進行していたのである。
オルテガが『大衆の反逆』で主張したのは、この「分立」に対する「否」である。
スペインは「統合」されなければならない。
オルテガはそう説いた。
オルテガによれば、「分極化」とは「個人化」のことではない。
むしろその反対である。
偏狭なナショナリストや宗教的ファナティックがそうであるように、ある特定の「群れ」に忘我的に同一化することで個人の「単独性」を引き受けることを拒絶する人間が社会を「分極化」「階層化」するのである。
だから、「分極化」から「統合」へ向かう道筋は、因習的に発想されるように「包括的な共同体」を創出して、そこにみんなが溶け込むことではない。
まったくその逆である。
個人が「マッス」への溶解を拒否し、その単独性を引き受けて生きること、それが「統合への王道」なのである。
オルテガ的な「統合」は「理解も共感も絶した他者と、それでもなお共存してゆく能力」によってしか基礎づけることができない。
オルテガの言う「大衆」は社会階層とも年収とも文化資本とも関係がない。

「大衆とは、みずからを、特別な理由によって―よいとも悪いとも―評価しようとせず、自分が〈みんなと同じ〉だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じて、かえっていい気持ちになる、そのような人々全部である」(『大衆の反逆』寺田和夫訳)

「自分と同一である他人」の数が多ければ多いほど大衆の「いい気持ち」は高まる。
だから、大衆はまわりの人々をできるだけ自分に似せようとする。そのための努力を惜しまない。
しかし、自分と似ている人間がふえればふえるほど、個人の唯一無二性は脅かされる。
だから、逆説的なことだが、大衆社会では、「みんなが単独性を放棄して、マッスに溶け込み、お互いにそっくりになればなるほど、みんなが『自分だけは特別だ』という不可能な事実を自己責任において挙証しなければならなくなる」という構造的にストレスフルな社会となる。
それはゴールデンウィークにディズニーランドに子連れででかけて、「なんで、こんなに人が多いんだよ」と毒づいているひとによく似ている。
彼は「他人と同じようにふるまう」ことでしか快感を得ることができない人間なのだが、その行為によって彼自身の快感はつねに、構造的に損なわれることになるである。
全員が見分けがたく同じようにふるまうことでしか快感が得られない社会、それは誰ひとり(他者を退け、蹴落とし、排除することでしか)快感を持続的に確保することができない社会である。
そういう社会をオルテガは「超民主主義」社会と名づけた。

「現時の特徴は、凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする点にある。」

そして、スペインの政治的文化的危機はまさにこの「おのれの凡庸に満足しきった大衆たち」のあいだの終わりなき抗争として展開している、オルテガはそう考えたのである。
この恐るべき「大衆」に対して、オルテガは「市民」という概念を対置してみせた。
統合と分裂、他者と自我、大衆と市民…この理路は簡単ではない。
オルテガがどのようにしてスペインの「統合」と「市民」の成熟を望見したのか、その話はまた明日書くことにする。
階層化=大衆社会の危機を「要するに、金(および類=金的なもの)が足りない」ということばで説明し、「だから問題はどうやって金(および類=金的なもの)を与えるかだ」という仕方で政策提言をしていると、それがむしろ社会の一層の階層化=大衆化をドライブすることにはならないであろうか…という危惧について、しばらく考えてみたい。
しかし、毎日長い話になるなあ。
書くほうも肩凝るけど、読むほうも大変だよね。
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