階層化=大衆社会の到来

2005-03-30 mercredi

このところずっと階層化と教育の問題ばかり考えている。
遅まきながら、苅谷剛彦『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会へ―』(有信堂)を読了。
四年前の本なので、この中で苅谷さんが統計的に証明してみせた「子どもの学力は母親の学歴と相関する」という命題は広く人口に膾炙したから、どなたもご存じだろう。
しかし、それだけにとどまらない多くの重要な指摘がここではなされており、教育を考える上でのランドマークとして残る本だと私は思う。
この本のいちばん重要な命題をひとつだけ挙げるならば、それは「日本は学歴社会ではない」ということである。
私たちの社会は「学歴によって序列化されている社会」ではなく、「学歴以前のカテゴリカルな条件づけによってあらかじめ序列化されている社会」であって、学歴における差別化は、すでに制度化している差別化のひとつの徴候にすぎない。
というのが苅谷さんの主張である。
かつて『ひょっこりひょうたん島』で、ドンガバチョがエレベーターの停止階表示の「針」を止めて、エレベーター「本体」を止めようとするという大技をくりだしたことがあったが、学歴社会の是正を通じてフェアな能力主義社会の実現を求めることは、それに似ている(『ひょうたん島』ではもちろんドンガバチョはエレベーターを止めてしまうのだが、そんな奇跡は「ひょうたん島」世界でしか起こらない)。

「メリトクラシーが、個人の業績、すなわちメリットを基準に社会的選抜を行い、なおかつ出身階層などの属性要因の影響を受けずに社会的平等をもたらすしくみであるとすれば、メリットの構成要素である能力も努力も、出身階層やその他の属性要因にかかわりなく分布していることが前提となる。」(147頁)

ところがこの前提は間違っていた。
メリットの構成要素のうち、とりわけ「努力する能力」はあきらかに出身階層の属性要因の影響を受けるからである。
わが兄上はかつてこううそぶいたことがある。

「『勉強ができる』というのは『頭がいい』という意味ではない。勉強のような『くだらないこと』に限りあるリソースを惜しみなく注ぎ込むことが『できる』という、一種の『狂気』に罹患していることを言うにすぎない。タツル、お前は気が狂っているだけなのだよ」

そう言って兄は受験勉強に孜々としていそしむ私に哀れみのまなざしを向けたことがあった(今にして思えばたいへん先駆的な洞察であったのだが、この洞察がもっぱら受験生であったご自身の学習時間の少なさを弁明するために功利的に用いられていたことが惜しまれる)。
しかし、目的はどうあれ、兄上の指摘はただしく「学歴社会」における「勉強が出来る」という語の語義を言い当てていた。
メリトクラシーというのは、努力するものに報いる制度である。
それは「誰でもその気になれば努力することができる」ということを前提としている。
しかし、「その気になれば」というところに落とし穴がある。
というのは、世の中には、「その気になれる人間」と「その気になれない人間」がおり、この差異は個人の資質というよりも、社会的条件(階層差)に深くリンクしているからである。
「総合的な学習」や「体験学習」は学力よりも創意や自発性を重視したカリキュラムである。
これが教育的に「コレクト」であるとされたのは、学力には「生得的・後天的なばらつき」があるが、創意や自発性はすべての子どものうちに等しく分配されているということを人々が信じていたからである。
しかし、いったい何を根拠にして、創意や自発性や、自然体験や職業体験を通じて「学ぶ喜び」を見いだす能力が「すべての子どものうちに等しく分配されている」ということを人々は信じられたのか。
教室での「勉強」以外の学習においても、学習意欲の高い子どもと低い子どもの差は歴然と存在する。
そして、しばしば、その差は学力以上に既決的である。
例えば、「本を読んで自分の感想を自由に書く」というのと「漢字を100個覚える」というのでは、何となく前者の方が自由度の高い、学力差のつかない教育法であるような感じがする。
しかし、家庭内に語彙が豊かで、修辞や論理的なプレゼンテーションにすぐれた人間が何人もいる子どもと、そうでない子どもの間では「自分の気持ちを自由に表現する」ことにおいてすでに決定的な差が存在するだろう。
親の一方が英語話者で、家では英語と日本語をバイリンガルにしゃべっているという子どもが「英語で読み書きする」教科でハイスコアを取るのを見て、たいていの人は「それはあまりフェアな競争ではない」というふうに考える。
しかし、親が「すぐれた日本語話者」である子どもが「日本語で読み書きする」教科でハイスコアを取ることを「フェアな競争ではない」と考える人はほとんどいない。
それは「日本人は誰でもみんな同じように日本語が使える」とみんなが信じているからである(少し考えれば、そんなはずないことにすぐ気づくはずなのに)。
同じように、「努力さえすれば報われる」という物言いが通るのは、「すべての子どもには『努力する能力』が等しく備わっている」と人々が信じているからである。
苅谷さんは「学習意欲」(インセンティヴ)そのものが学習に先立ってすでに「階層化」(ディヴァイド)していることを指摘している。

「インセンティヴへの反応において、社会階層による差異が拡大しているのである。インセンティヴへの反応の違いが教育における不平等、さらにはその帰結としての社会における不平等を拡大するしくみ―インセンティヴ・ディバイドの作動である。」(210頁)

この「意欲格差」(インセンティヴ・ディバイド)は短期的に加速している。
この階層分化が急速に進んでいるのは、「インセンティヴが見えにくくなることは、学校での成功から降りてしまう、相対的に階層の低いグループの子どもたちにとって、あえて降りることが自己の有能感を高めるはたらきをももつようになっている」(210頁)からである。
不思議なことだが、「勉強しない」という事実から自己有能感を得る人間が増えているのである。
これについては苅谷さんが恐ろしい統計を示している。
私たちは「勉強ができない」子どもは「自分は人よりすぐれたところがある」というふうになかなか考えることができないだろうと推測する。
ところが統計は微妙な経年変化を示している。
もちろん、いまでも勉強ができない子どもが有能感をもつことは少ない。
しかし、階層間では有意な差が生じている。

「相対的に出身階層の低い生徒たちにとってのみ、『将来のことを考えるより今を楽しみたい』と思うほど、『自分は人よりすぐれたところがある』という〈自信〉が強まるのである。同様に、(…) 社会階層の下位グループの場合にのみ、『あくせく勉強してよい学校やよい会社に入っても将来の生活にたいした違いはない』と思う生徒(成功物語・否定)ほど、『自分は人よりすぐれたところがある』と思うようになることがわかる。」(198頁)

つまり、「現在の享楽を志向し、学校を通した成功物語を否定する―すなわち業績主義的価値観から離脱することが社会階層の相対的に低い生徒たちにとっては〈自信〉を高めることにつながるのである。」(199頁)
苅谷さんは 97 年の統計に表われたこのような「ねじれ」は 1979 年段階では見られない点を指摘している。
階層間で自己有能感形成のメカニズムに差異が生じたのは、ごく最近の現象なのであり、それは強化されつつ進行しているのである。
そこから導かれる暗澹たる結論は次のようなものである。

「結論を先取りすれば、意欲をもつものともたざる者、努力を続ける者と避ける者、自ら学ぼうとする者と学びから降りる者との二極分化の進行であり、さらに問題と思われるのは、降りた者たちを自己満足・自己肯定へと誘うメカニズムの作動である。」(211頁)

どうして、「学びから降りる」ことが自己満足や自己肯定に結びつくのか、その理路はわかりにくい。
けれども、このような状況は決して「いまはじめて」起きたことではないように思われる。
私は苅谷さんが指摘したのと似た状況を記述したテクストを読んだ記憶がある。
それは今から75年前にスペインの哲学者が書いた『大衆の反逆』という書物である。
この本について私が書いた解説の一部をそのまま引用しておこう。

思想家たちは、「邪悪な人間」と「バカな人間」のどちらを優先的に憎むかによって、二つのカテゴリーに分けることができる。「バカ」を「悪人」よりも憎むタイプの思想家たち(ニーチェ、ハイデガー、ポパー、フーコー)の系列にオルテガも間違いなく属している。
アナトール・フランスの「愚か者は邪悪な人間よりも始末が悪い」という金言を引いたあと、オルテガはこう続けている。「邪悪な人間はときどき邪悪でなくなるが、愚か者は死ぬまで治らないからだ。」
『大衆の反逆』は「古典」がつねにそうであるように、具体的な経験と観察に深く根ざしている。オルテガはひたすら怒る。彼が怒るのは、「現代大衆社会」という抽象概念に対してではない。彼が投宿するホテル、通っている劇場、休暇をすごすバカンス先を「いっぱい」にして、オルテガの快適な生活を妨害している生身の「大衆」に対してである。
オルテガは「大衆」をこう定義する。

「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」

この言葉遣いは一見するとニーチェの「畜群論」によく似ている。しかし、両者のあいだには、決定的な違いがあると私は思う。
オルテガは「自分以外のいかなる権威にもみずから訴えかける習慣をもたず」、「ありのままで満足している」ことを「大衆」の条件とした。オルテガ的「大衆」は、自分が「知的に完全である」と思い上がり、「自分の外にあるものの必要性を感じない」ままに深い満足のうちに自己閉塞している。これはニーチェが彼の「貴族」を描写した言葉とほとんど変わらない。つまり、ニーチェにおいて「貴族」の特権であった「勝ち誇った自己肯定」が社会全体に蔓延した状態、それが、オルテガの「大衆社会」なのである。(現に、『大衆の反逆』の刊行の一年後に、ニーチェの「貴族主義」を看板に掲げた20世紀最悪の「大衆運動」がドイツで政権の座に就くことになる)。

オルテガの大衆社会論を苅谷さんの本を読んだあと読むと、なんだか背筋が寒くなってくる。
私たちは疾くから自分たちのいるのは「大衆社会」だと思っていた。
しかし、もしかすると私たちは「見通しが甘かった」のかもしれない。
オルテガやニーチェが絶望的な筆致で記述した「大衆社会」は日本では「これから」始まるのかも知れない。
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