シリウスを見よ

2005-03-29 mardi

「死のロード」から帰還した翌日から名色高原ホテルで合気道の合宿。
合気道の合宿中は活字も読まず、テレビも見ず、パソコンのディスプレイも存在しない。
ひたすら「稽古、フロ、飯、寝る、稽古、フロ、飯、寝る、(酒)、寝る」の繰り返しの「極楽合気道」である。
しかし、合気道の稽古ほど「頭脳」を使う経験はないのではないか、と私は思う。
稽古のあいだ、私はほとんど「しゃべりっぱなし」だからである。
どうして、武道の稽古で私が「しゃべりっぱなし」であるかというと、私のひとことで、稽古している諸君の動きが「一変」するからである。
身体は固有のシステムであり、脳の支配にあらがう、というような心身二元論を私自身もよく口走るが、これはあまり正確ではない。というか、ぜんぜん正確ではない。
身体運用はきわめて脳化された経験だからである。
私たちは自分の身体の動きを言語的に分節しない限り、身体運用モードを意識的に統御することができない。
たとえば、私がこのところ凝っている「コヒーレンス合気道」では「内臓運動感覚」(kinesthesie)というものを重視する。
この術語を私がはじめて見たのはたぶんメルロー=ポンティの『知覚の現象学』においてであったが、このことばは以来 30 年、私の「喉」に「小骨」のように刺さったままだった。
「『キネステジー』って何だろう?」
「もしかして、『これ』かな」
という coup de foudre (電撃的衝撃)が私を訪れたのは、ロイホで「丸亀のロレンツォ・ディ・メディチ」守伸二郎さんが「構造」ということばを告げて站椿のかたちをした瞬間であった。
守さんの腕を頭上に掲げるだけの動きには、どこにも関節的なセグメントがない。
このなめらかさを担保しているのは何だろうと思って見つめているときに、
「守さん、もしかして内臓を動かしているんじゃないかな」
と思い至ったのである。
両腕を頭上にかかげるときに、肩や肘の関節がヒンジ運動をしないようにコントロールすると、内臓がわずかに下がるのが感じられる。
人体の構造的安定を配慮すれば当然のことだ。
屋根の梁を高くあげようとするときには、礎石を重くしなければ構造物の安定は維持できない。
逆に手を下げるときは、内臓を少し巻き上げるようにすると動きはなめらかになる。
「キネステジー」とはもしかすると「このこと」かと、ふと思い至ったのである。
「キネステジー」というような術語はもちろん私たちの日常語にはない。
だから、私たちの内部でざわめく無数の身体的シグナルのうちのいくつかをそのような語をもって分節し主題化する習慣は私たちにはない。
けれども、その語が発語された瞬間、語はそれ固有の意味を持ってせり上がってくる。
意味とは畢竟「差異」である。
「キネステジー」という語を知らなかったときには非主題的であった身体的シグナルのうちのいくつかが、この語を耳にしたときに「それって、もしかして『これ』のこと?」という文型でなんらかの「輪郭」を持つようになったとしたら、この「輪郭」の生成はほかならぬ記号の効果である。
身体の分節は記号的な分節である。
だとすれば、身体語彙が豊かな人間は、そうでない人間にくらべて統御できる(といわぬまでも感知できる)部位の数が有意に多いということは十分にありうることなのである。
だから、私は稽古の間中、しゃべりつづける。
マシンガンのように無数の「メタファー」を乱れ打つ。
今般稽古で多用したのは「ごらん、ヴィルジニイ、あれがぼくたちのお星様だよ」(@ベルナルダン・ド・サン=ピエール)からお借りした「ごらん、のぶちゃん、あれがぼくたちのシリウスだよ」というフレーズである。
合気道の身体運用には物理学の用語よりはむしろ詩的なことばの方が効果的であるのではないかと前々から思っていたのであるが、予想通り。
以前、稽古のとき、腕をまっすぐに伸ばして相手を制するときの身体運用のメタファーとして、「軒下から手をそっと差し出して、小雨が降り出したかどうかを手のひらで確かめるときの心地で」ということを申し上げたら、全員が一斉にみごとな動きを見せたことがあった。
雨もよいの空を見上げて、見えない雨粒の予兆を手のひらで感じようとするとき、手のひらはどんな微細な入力にも対応できるように感受性を高める。
精密な天秤で軽量の物体を量るときのように、体軸はただ一本の細い線となる。
この「ごくわずかな入力にも反応できるほどに精密で繊細な構え」から発動する勁さと速さは人間が発揮しうるもののうちでも最高水準のものである。
そのような状態を私たちの身体はわずかな詩的イメージからつくりあげることができる。
人間の身体はまことに精妙に言語的に分節されているのである。
私はこれまでしばしば「脳」と「身体」を二元論的な対立図式の中で語ってきたけれど、実際には、身体運用の精密化は喚起力の強いことばを介在させずには果たすことができない。
そして、言語運用はやはり脳の管轄なのである。
その意味で、どれだけ「喚起力のあることば」を駆使できるかということが武道の指導において(「ある段階までの」という限定は付くが)、たいへんに重要であるように私には思われるのである。
現に、わが師である多田先生も、敬愛する甲野善紀先生も光岡英稔先生も卓越した「ことばづかいの名手」である。
もちろん「定型的なイメージ」に頼ることがかえって身体運用を限定する危険はつねにある。
けれども、「イメージに頼ってはいけない」ということを伝えるためには、言語記号を経由せざるをえない。
そして、イメージを伴わない言語記号はありえないのである。
だから、武道の技術について語る言語は、その言語が指示する定型的イメージをそのつど打ち消さなくてはならないという背理を背負っている。
そのつど前言撤回的である言語記号。
おお、これってまるでレヴィナスではないか。
とりあえず、「シリウス」というのが取りと受けのコヒーレンスを合わせるためにはたいへん効果的なイメージであることは今回の合宿で経験的に確証されたのである。
もしかすると、「コヒーレンスを合わせる」ということが技術的な目標である場合は、双方に共有され易い定型的イメージの方がかえって有効、ということなのかも知れない。
「だから、『シリウス』って何なんだよ」とイラつかれている読者もおられるであろう。
その方は前日の日記の写真の「シリウスのポーズ」が達成している身体的コヒーレンスの状をご覧いただきたい。
これが「シリウスをみつめたせいでコヒーレンスが合ってしまった人々」の姿である。
(付言すると、「かなぴょんのポーズ」で二列目左から三人目が「オリジナル・かなぴょん」であり、これこそが伝説の「必殺かなぴょんのポーズ」である。部員諸君はよくよく拝見して会得しておくように)。

合宿明けの本日は、インタビューが二件。
最初は高雄くんの中学時代からのご学友の N 大の Y 地さん。
「あの」高雄くんにこんな聡明で美しいご学友がいたとは…と、思わず高雄くんを見直す。
そういえば、内古閑のぶちゃんも高雄くんを評して「彼はすごくセンスいいですよ」と最大級の賛辞を送っていた。
どうも KC 合気会一同は「一品持ち寄り宴会に手ぶらで来る体と態度の大きい前髪のうるさい男」という定型的イメージにふりまわされて、知性とセンスあふれる彼の真実の姿を見失っていたようである。
ウッキー、反省しようね。
Y 地さんをお相手に、言語と身体、「謎の発生装置」としての型、師と型の二元による教育システムというようなお話を2時間する。
果たして学術情報として有意なことをお伝えできたかどうかはなはだ疑問なのであるが、にこにこと笑顔を残してお帰りになった。

お帰りになると入れ違いに朝日新聞のK林記者が登場。
四月から始まる新企画「大学面」の「誌上講義」に私が出講させていただけるらしい。
「神戸女学院大学」という名前が三週間紙面に出るばかりか大学の写真や紹介記事まで書いていただけるというから、これは管理職サラリーマンの「本務」としてお引き受けせざるを得ない。
日本の高等教育の諸問題ならびに「知の身体性、身体の知性」というお題でノンストップ4時間しゃべり続ける。
朝から連続6時間。
23 日から今日まで、ほとんど「しゃべりっぱなし」である。
さすがに喉がかれて声が出ない。
インタビューが終わって、三宅先生のところに行って、身体の歪みを補正し、筋肉中の痛みを消していただく。
「乳酸、消しておきました」
ヤクルトが一本筋肉中からかき消えたイメージを思い浮かべようとするが、うまくゆかない。
たぶんそういうことではないからであろう。
おみやげに三宅先生から「身体が良くなるブレスレット」をいただく。
よく寝られて、ご飯が美味しくなって、いくらのんでも二日酔いをしなくなるこの魔法のブレスレットは、韓国のオリンピック選手団ご愛用の品だそうである。
わーい。
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