一日教育評論家

2005-03-25 vendredi

死のロード二日目。
疲労困憊して学士会館で死に寝。
起きてまず小学館『中学教育』のインタビュー。
「公立中学校のクラス担任必携マガジン」ということなので、中学校の先生用のお話をする。
私の場合は「すーさん」という具体的な公立中学校の先生の読者モデルがいるので、「すーさん」を相手に話すようなつもりで話す。
今日の新ネタは、「子どもの自己評価肥大によって受益している『業界』は決して子どもの自己評価を適正に下方修正する教育プログラムに同意しないであろう」というものである。
というのも、「業界」は「自分には無限の可能性がある」と信じ込む子どもとその親から「収奪」することで莫大な利益を上げているからである。
卒業後「フレンチのシェフになりたい」から料理専門学校に進学したいという相談をしてきた学生がいた。
「料理が得意なの?」と訊いたら
「別に・・・」
ということであった。
料理が得意でも特に好きでもない人間がなぜ…
と不審に思って、ふと「授業料いくら?」と訊いたら「250万円」ということであった。
なるほど。
「あなたには無限の可能性があります」というイデオロギーがこれほど瀰漫して、子どもたちの自己評価を狂わせることに何の益があるのだろう…と思っていたが、ちゃんと「益」はあったのである。
「子どもが自己の可能性を過大評価すること」から受益している業界は「あなたには無限の可能性があります」という危険なイデオロギーを瀰漫させることにこれからも加担し続けるはずである。
ほとんどの業界は「その業界で就職すること」を夢見る子どもたちから骨の髄までしゃぶり尽くすような「収奪メカニズム」を整備している。
メディア業界はその最たるものである。
メディアの周辺には「メディアで働きたい」という夢を抱いた数十万の若者が蝟集している。
この若者たちは、機会さえあれば法外な低賃金で滅私奉公的に働いてくれるばかりか、メディアが提供する商品の購入に生活費に比して過大な支出を投じることによって業界を下支えしてもいる。
「そんなことをしてもメディア業界に収奪されるだけだよ」ということをメディアは決してアナウンスしない。
するはずがない。
だから、子どもたちは嬉々として「注文の多い料理屋」のドアを叩くのである。
私たちの時代に「自己の可能性を過大評価したせいで、学校教育から脱落してゆく子どもたち」が大量生産されているのは、子ども自身の愚かさのためだけでなく、「子どもが(たいていの場合はその親も)愚かである」という事実から受益している人々が存在するからなのである。
この人々は「あなたには無限の可能性があります。さあ、レッツ・チャレンジ!」というようなアオリをこれからも続けるであろう。
「そういう甘い話を信じるな」とむかしの大人たちは苦い顔をして子どもに諭したものだが、いまどきの親たちはしばしば子どもと同じくらい夢に対して無防備だ。
子どもばかりを責めても始まらない。
というような話をする。

続いて『週刊ダイヤモンド』のインタビュー。
トピックはこちらも教育問題。
どうも私はいきなり教育問題の専門家になってしまったようである。
中学の話はもうしてしまったので、こんどは大学教育の話をする。
ネタはおととい仕込んだばかりの大学評価。
私は業務命令で送り込まれたセミナーで聞いた話をそのまま週刊誌のインタビューで自分の創見であるかのように語ることのできる、たいへん「情報燃費のよい人間」なのである。
『週刊ダイヤモンド』は経営者や40―50代の管理職サラリーマンが読者ということなので、「マネジメントモデルで教育を語ることの危険」について滔々と論じる。
大学の教員相手には「マネジメントモデルで教育を語ることの必要性」を滔々と弁じ、経営者相手にはその反対のことを語る。
首尾一貫していないじゃないかと怒る方もおられるであろうが、「人を見て法を説け」と俚諺にも言う。
経営者はもう少し教育の「ファンタジー的要素」にご配慮いただき、教員のみなさんにはもう少し教育の「市場性」にご配慮いただく。
これをして「リスクヘッジ」(原義は「賭けに負けないために、両方に賭金を張ること」)と言うのである。
インタビュアーのお嬢さんはもと苦楽園の住人、甲南女子から東大というある種ティピカルな「阪神間ガール」であるので、たいへん話の周波数がよく合って1時間の予定が、2時間半近くしゃべり続けてしまった。
さて、このあとは最後の大イベント。朝カルで高橋源一郎さんと文学についての対談である。
果たしてテンションの高い対談に耐えられるだけの体力気力が私に残されているであろうか。
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