死のロード初日

2005-03-25 vendredi

死のロードが始まる。
まず初日は神田外語大異文化コミュニケーション研究所主催の講演会。
大学は神田にあるのかと思っていたら、千葉の幕張というところにある。
早起きして眠い眼で新幹線に飛び乗る。
「天むす」と「とん蝶」を朝ご飯に頂いて、そのまま爆睡。
東京駅から京葉線で海浜幕張へ。
目を上げるとウルトラモダーンな未来都市が出現したので仰天。
タクシーの運転手さんに「この街、いつできたんですか?むかしは(って35年くらい前だけど)には、こんな街なかったですよね」と訊いたら、
「むかしは海ですよ」
というクールな答えが返ってきた。
そうだよね。
神田外語大はその広大な埋め立て地の一角にある。
敷地が広いので、せいせいしたキャンパスである。
会場で、お招きいただいた藤田知子先生、ギブソン松井先生、はるばる福岡からこの講演を聴くために飛んできたという吉武正樹先生(吉武先生は海鳥社の別府さんの『ライオンとペリカンの会』のメンバーで、私の『他者と死者』の読書会のレポーターをされたご縁でいらしたのである)にご挨拶。
さっそく、十数名の聴衆を前にして、「ジェンダー論をめぐる背理的状況」と題して小咄一席を伺う。
『希望格差社会』や『オレ様化する子どもたち』や『オニババ化する女たち』に活写された現代日本の「階層化とリスク社会化」趨勢にたいして70年代以降のフェミニズムは、その流れをとどめる方向ではなく、むしろ積極的に流れに棹さす方向で機能してきたのではないか、という問題提起を行う。
フェミニズムの基幹的主張をなすのは「社会的リソースの分配における性的差異の解消」と「自己決定」である。
前者は「社会的リソース」(ボーヴォワールのことばを借りれば「男性と同一の資格、採用条件、給与、昇進機会、ヒエラルヒーの頂点に達する同一のチャンス」)そのものは「よきもの」であるということを前提としている。
「自己決定」は、「リスクを多くとるものが自己決定の領域を拡大できる」というマネジメントの原則によって、自己決定機会の多い人間ほどハイリスクを負うことを自明としている。
いずれも「能力がありリスクを冒すものは(性別、人種、国籍、信教などにかかわらず)、それにふさわしいリターンを権力、財貨、威信、情報、知識などのかたちで獲得することができる社会がフェアな社会である」という前提の上に成り立つ。
つまり、近代のフェミニズムはメリトクラシー(能力主義)ときわめて親和性の高いものだったということである。
フェミニズムは「女性弱者のリスクをいかにして軽減するか」よりもむしろ「リスク・テイク機会を可能な限り拡大することで女性強者の自己実現を支援すること」を優先させた(というのは、弱者のリスクを軽減できるのは、強者しかおらず、父権制社会で強者であるのはさしあたり男性だけであり、女性が同性の弱者のリスクを軽減しようと望めば父権制内部で強者になるほかないからである)。
リスク・テイキングとデシジョン・メイキングがワンセットであることはマネジメントの常識であるし、潜在可能性豊かな人間がそのポテンシャルを最大化したいと望むこともごく自然なことである。
その限りでは、この主張には別に何の理論的破綻もない。
だから、日本のフェミニズムは、社会の階層化と中間的共同体(地縁=血縁共同体、「親方日の丸型企業」)の消滅を社会の能力主義的再編をうながす流動化の契機とみなして、むしろ歓迎する立場をとってきた。
しかし、今私たちはその流動化が加速した結果、予想以上にはやく能力主義による階層化が進行して、一部の社会集団にリソースが集中して社会の流動性がむしろ失われつつあるという状況に直面している。
そして、この「リスク社会」においては、個人に代わってリスクヘッジする中間的共同体に支援されているものたちが勝ち続けることになる。
背理的なことであるが、自己決定=自己責任社会では、ひとりで決定しひとりリスクを引き受ける人間よりも、自分に代わって決定し自分に代わってリスクを引き受けてくれる複数の中間的共同体=「強者連合」に加盟している人間の方が競争において圧倒的に有利なのである。
それゆえ、社会的弱者の救済のためにも、個人のデシジョンを限定する代わりにリスクをヘッジする中間的な共同体(金井淑子さんが提唱している「親密圏」というのはそのような共同体の一つだろう)の創設が喫緊の政治的課題として論じられているのである。
しかし、この政治的課題とフェミニズムがこれまで掲げてきた自己決定=自己責任論を整合させることがほとんど不可能であることは誰にもわかる。
というような話(でもない、もっと支離滅裂な話)を1時間半ほどして、それから質疑応答。
たいへん活発な議論が展開した。
フェミニストの「虎の尾」を踏みまくったので、さすがにフェミニストの方からはきびしいご反論をいただくことになったが、それは身の不徳の致すところであるから、甘んじて受けるしかない。
興味深かったのは、今回は論じきれずに質問の中で触れることになった「身体性を開発する教育」という主題をめぐって、「女性にとって身体経験とは何よりもまず自分の性を意識させられる経験である」という命題がふたりの発言者からあたかも「自明の真理」として語られたことである。
私自身は身体の覚知が必ず「自分の性を意識させられる経験」であるというふうに考えたことがない。
性の意識というのは、器官レベルと社会的幻想のレベルの錯綜する、かなり「脳化された経験」である。
私が内観とかコヒーレンスとか気の感応とか言うときの「身体」はどちらかというと分子レベルの話であって、社会構築的な「ジェンダー」とは関係がない。
「ジェンダーコード」をあてはめて身体的シグナルを解読すれば、身体は「性的なもの」として経験されるだろうし、「人種コード」をあてはめて解読すれば「人種的なもの」として経験されるであろうし、「宗教コード」をあてはめれば「宗教的なもの」として経験されるであろう。
そして、身体的シグナルを解読するコードはそのような社会構築的なものばかりではない。
コヒーレンスやキネステジアやアラインメントというような特殊なタームで記述される身体経験にジェンダーはまったく関与しない。
細胞の整い方や内臓を支える筋肉の動きや重力にむけて感覚を統御しなければならないときに「まず自分の性を意識してしまう」という人がいたら、その人は少なくとも武道には適性がないと申し上げなければならない。
フェミニストと私の食い違いはだいたいいつも同じ仕方で起こる。
私は「性」以外にも人間的経験の意味を考量するコードはあるだろうと思うのだが、フェミニストの方には「性以外にも人間的経験の意味を考量するコードがある」という考え方は男性に固有のものであると言われてしまうので、私も話を先に続けることができなくなってしまうのである。

神田外語大のみなさんとお別れして(藤田先生、お世話になりました。お礼申し上げます)、雨の中池袋に移動。
本日の第二ステージはジュンク堂池袋店で『インターネット持仏堂』の刊行記念の釈徹宗先生とのトークセッションへ。
タクシーの中で角川書店の江澤さんと1時間半ほどおしゃべりしていたので、1時から6時まで5時間話し続けということになる。
そのあとさらに2時間のトークセッション。
7時間連続マラソントークというのはさすがに私もはじめての経験である。
さいわい、釈先生はご商売がら、話題が「ツボ」にはまると、さくさくと噛んで含めるようにありがたい法話が湧出する「説教体質」であるので、ふたりでどんどんおしゃべりをしているうちにめでたく時間となる。
サインとマンガ(私はネコマンガ、釈先生は「お地蔵さんマンガ」)をかりかりと50冊ほど書いて、無事仕事は終了。
ジュンク堂と本願寺出版社とスタッフのみなさんのご案内で、藤本さん、医学書院のワルモノエディター白石さん、文春のヤマちゃん、『文學界』のヤマシタさん、新潮新書の足立さん、(なぜか長谷の大仏を見るツァーの途次ここにいあわせている)ウッキーらとぞろぞろ打ち上げ会場に。
そこにK錬会のK野くんがおともだちをつれて乱入。
あっという間に「ただの宴会」状態になり、爆笑のうちにお開き。お勘定は西本願寺さまが太っ腹で引き受けてくださいました。ごちそうさまでした。
担当の藤本真美さんにしてみると、2002年の10月から始まった2年半がかりの仕事である、「ようやく終わったか・・・」と軽い自失状態であった。
釈先生はともかく、私や山本浩二画伯のような「編集者の人権や出版社のご都合をあまり優先的に配慮しない人間」を相手にして、本願寺と印刷所の間を周旋するご奔走に、さぞやご心労を重ねたことであっただろう。
この場を借りて、篤くお礼を申し上げるのである。
こんどお礼にごちそうしますね。
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