希望格差社会

2005-03-21 lundi

満室だったのに三宅先生がコネでねじこんでくれた(三宅先生はどの世界にもコネがある)品川プリンスに泊る。
橋本さんとの対談で脳がほどよく「ほとびて」爆睡したので、朝6時に目が覚めてしまった。そのまま朝一の新幹線で芦屋に戻る。
帰りの車中で山田昌弘『希望格差社会』(筑摩書房)を読む。
電車の中では本がよく読める。
私の読書量が通常の大学教員に比して著しく劣っているのは、私が電車通勤していないせいである。
もし片道1時間半ほどの距離にいたら、私は往復車中で一日2冊ずつ本を読破して、あらゆる問題についてさくさくとロジカルにしてクリアカットな意見を述べることのできる人間になれたであろう。
「家で読めばいいではないか」という方もおられるだろうが、家では書かなければならない原稿の続きがHDの中で「おいでおいで」をしており、居間には途中まで見たラス・メイヤーの巨○DVDが私を待っており、納戸にはただちに整理しなければならない夏物冬物の山が崩れかけており、仕事のため以外の本を読むような暇は私には一瞬とてないのである。
『希望格差社会』の残りを芦屋のモスバで朝ご飯を食べながら読み終える。
「言いにくいこと」がはっきり書いてある本である。
メディアがいいにくいことをはっきり言い切ってしまっているという点では、先日ご紹介した『オレ様化する子どもたち』に通じている。
諏訪さんの本は「子どもが危ない」ということを(「子どもが危険にさらされている」という意味と、「子どもが私たちに危険をもたらす」という意味の両方において)明言していた。
山田さんの指摘は「若者が危ない」ということである。
これも同じく、「若者が社会的弱者になりつつある」ということと、「やがてこの弱者たちが社会に危険をもたらすであろう」ということの二点を指摘している。
まず統計を見てみよう。
親と同居している未婚成人(その過半がいわゆる「パラサイト・シングル」)は1200万人。
離婚数は年間29万組(結婚75万に対する数値だから結婚したカップルの40%が離婚)
結婚75万のうち、「できちゃった婚」(婚姻届提出後10ヶ月以内に出産)は15万。
フリーター(未婚若年アルバイト雇用者)は200万人。失業中、未婚派遣社員を入れると未婚若年不安定雇用者数は400万。
「引きこもり」については正確な数値がないが、推定50万人。
義務教育期の不登校は13万。
児童虐待は児童相談所が把握しているだけで年間2万件。
「将来、自分の生活がよくなる」と考えている若者(25-34歳)は15%。
中学生の70%が「将来、日本は今以上豊かにならない」と考えている。
どうして、こんなことになったのか。
山田さんはその理由を「リスク社会」の出現に求めている。
「リスク社会」とは何か、山田さんはこう説明する。
それは「リスクをとることを強制される社会」、「選択を強制される社会」のことである。

「自分のことに対しては、自分が決定する。これが自己決定の原則である。そして、自分で選択したことの結果に対しては、自分で責任をとる、これが『自己責任』の原則である。リスクの個人化が進行するということは、自己決定や自己責任の原則の浸透と表裏一体である。リスクに出会うのは、自分の決定に基づいているのだから、そのリスクは、誰の助けも期待せずに、自分で処理することが求められている。
失業したり、フリーターになったりするのは、自分の能力の問題である。離婚したのは、離婚するような相手と結婚したからである。(…) リスクが避け得ないものとなると同時に、個人は、そのリスクをヘッジすること、そして、生じたリスクに対処することを、個人で行わなくてはならない時代になっている。」(46 - 47頁)

「リスク社会」とは、これまで個人にかわってリスク・ヘッジを担当してくれた社会的機能(国民国家や地域共同体や血縁集団や「親方日の丸」的企業)がその仕事を放棄し、「これからは自分のことは自分で決めてよろしい。その代りに諸君がどんなことになっても当局は一切関知しないからそのつもりで」というルールを採用することになった社会のことである。
『ミッション・インポシブル』がそうであるように、そこでは「リスクヘッジが適切にできる個人とできない個人の間」に(しばしば破滅的な)クレバスが開口することになる。
みなさんご案内のとおり、いわゆる「構造改革」とか「市場淘汰」というのは、この流れのことだ。
そういう社会では、基礎的な能力が高く、かつプライヴェートな相互扶助組織(人脈、学閥、閨閥など)に支援されていて、かつ「戦略的に考えることのできる人間」はたくみにリスクヘッジすることができる。
彼らはリスクヘッジをさらに確実化するために、「強者同士の相互扶助組織」を強化する方向に向かう。
その端的な表れが、「強者同士の婚姻」である。
これまでの家族社会学の常識では、「夫が高収入の場合は妻が専業主婦となり、夫が低収入の場合は妻が就労して家計を補完する」ということになっていた。
この常識はもう覆えされつつある。
話は逆になっているのである。
「夫が高収入の場合ほど、妻の就労率が高く、夫が低収入であるほど、妻の就労率が低い」という傾向が顕著になってきている。
高度専門職についている「強者」の男女が婚姻し、さらに豪奢な生活を享受する一方で、不安定就労者同士が結婚した生活能力のないカップルに「できちゃった婚」で子どもが生まれて一層困窮化する。
不安定就労者の若年男性は、事実上、自分と同程度に社会的弱者である不安定就労者の女性の中からしか配偶者を選ぶことができない(高度専門職に就いている女性強者が男性弱者を配偶者に選ぶ可能性はほとんどない)。
だが、弱者同士の結婚は、「共倒れ」のリスクをむしろ増大させるだけだろう。
不安定就労の若年女性が、男性強者の配偶者に選ばれる(「玉の輿」の)確率はそれよりはずっと高い。
しかし、リスク社会では、かりに女性が不安定就労者であっても、男性強者は配偶者に相当の学歴や教養や人脈などの文化資本を要求する。
言い換えれば、男性強者の専業主婦たりうる条件は「文化資本を備えた強者の家庭のご令嬢」であるというかたちで、あらかじめ限定されているのである。
未婚率の急上昇、少子化の進行の背景には、この勢いづく「強者連合」によって蹴散らされた「結婚したくてもできない弱者」の急増という事実がある。
リスク社会は「勝つ人間は勝ち続け、負ける人間は負け続ける」というフィードバックを繰り返して短期的に二極に分化する。
その結果はどうなるのか。

「夢に向かって努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。全ての人が希望通りの職に就けることはあり得ない。『一生』大学教員になれない博士課程入学者は年に一万人ずつ、『一生』上場企業のホワイトカラーや技術職につけない大学卒業生は、多分、年に数万人ずつ、『一生』中小企業の正社員にさえなれない高校卒業生は、年10万人ずつ増えてゆく。これに呼応して、正社員と結婚するつもりだが、一生結婚できないフリーター女性は、年20万人ずつ発生していくのである。(…)
いつかは受かるといって公務員試験を受け続けても、三十歳を過ぎれば年齢制限に引っかかる。どうせ正社員に雇ってくれないからと就職をあきらめ、単純作業のアルバイトをしていた高卒者は、仕事経験や能力が身に付かないまま、歳だけとり続ける。よい結婚相手に巡り会えないからと結婚を先延ばしにしていた女性は、四十過ぎれば見合いの口もかからなくなる。当の若者は、考えると暗くなるから考えない。若者自身が、不良債権と化すのだ。(…)
結婚や子供を作ることなく、高齢を迎える元フリーターの中年男性、女性が100万人規模で存在する社会はどのようなものになるだろうか。」(127-8頁)

ここまではっきり書く人はあまりいないが、私は山田さんの暗鬱な未来予測には十分な根拠があると思う。
戦後日本はひたすら「中間的なセーフティネット」を破壊してきた。
都市化・近代化で、まず農村的な地域共同体と血縁集団が破壊された。
しばらくは「親方日の丸」的な企業が終身雇用と年功序列制によって失われたこの共同体を代補した。
だが、「社畜化」したサラリーマン男性が家庭より企業に優先的に帰属感を抱いているうちに、最小の血縁集団であった核家族が解体してしまった。
ポスト産業社会化とともに、サラリーマンにとっての最後の共同体的よりどころだった企業も解体して、とうとう「中間的共同体」が何もなくなってしまった。
まるはだかにされて、正味の個体の生存能力をフル動員して生き延びるしかない、リアル・ファイトの闘技場に私たちは放り出されたのである。
文句を言っても始まらない。
「そういうのが、いい」とみんなが言ったからそうなったのである。
「夫らしく妻らしくなんて役割演技はたくさんだ」「親の介護なんかしたくない」「子どもの面倒なんかみたくない」「隣の家とのつきあいなんて鬱陶しい」「会社の同僚の顔なんか終業後に見たくない」「オレはやりたいようにやる」「あたしの人生なんだからほっといてよ」…ということをみなさんがおっしゃったので、「こういうこと」になったわけである。
誰を恨んでも始まらない。
山田さんは、あと20年後に確実に不良債権化する「元若者」たち(社会的能力もなく、家族もなく、年金受給資格もなく、保険にも入っていないような中年老年の男女)の生活保護のための財政支出と、自暴自棄になった「元若者」たちの犯罪に対処するための治安コストを考えると、いまのうちに、なんとか手を打った方がいいと提案している。
もっともだと思う。
けれども、公共政策によって彼らに最低限の生活保障を行っても、彼らの「将来に希望がもてない」という実感をどうにかすることはできない。
問題は山田さん自身が言うとおりに、どちらかというと「心理的なもの」だからである。
「個人的対処への公共的支援が必要である」と山田さんは書いている。

「私は、リスク化や二極化に耐えうる個人を、公共的支援によって作り出せるかどうかが、今後の日本社会の活性化の鍵となると信じている。(…)
能力をつけたくても資力のない者には、様々な形での能力開発の機会を、そして、努力したらそれだけ報われることが実感できる仕組みをつくることである。(…)
学校システム、職業訓練システムでは、これくらい努力したら卒業、もしくは、資格をとれば、これくらいの仕事に就ける、収入が得られるという保障をつけたメカニズムをつくるべきである。」(241頁)

なるほど。
もうひとつの提案はもっとシビアだ。

「自分の能力に比べて過大な夢をもっているために、職業に就けない人々への対策をとらなければならない。そのため、過大な期待をクールダウンさせる『職業的カウンセリング』をシステム化する必要がある。」(242頁)

この「過大な期待を諦めさせる」ということは子どもを社会化するためにたいへん重要なプロセスであると私も思う。
これまで学校教育はこの「自己の潜在能力を過大評価する『夢見る』子どもの自己評価をゆっくり下方修正させる」ことをだいたい十数年かけてやってきた。
中学高校大学の入試と就職試験による選別をつうじて、子どもたちは「まあ、自分の社会的評価値はこんなとこか…」といういささか切ない自己評価を受け容れるだけの心理的素地をゆっくり時間をかけて形成することができた。
しかし、「オレ様化」した子どもたちは、教師が示唆する自己評価の「下方修正」をなかなか受け付けない。
彼らは過大な自己評価を抱いたまま、無給やそれに近い待遇で(場合によっては自分の方から「月謝」を支払ってまで)「クリエイティヴな業界」に入ってしまう。
「業界」そのものは無給薄給でこき使える非正規労働力がいくらでも提供されるわけだから笑いが止まらない。
自己を過大評価する「夢見る」若者たちを収奪するだけ収奪して、100人のうちの一人くらい、力のある者だけ残して、あとは「棄てる」というラフな人事を「業界」は続けている。
時間とエネルギーを捨て値で買われて、使い棄てされる前に、どこかで「君にはそこで勝ち残るだけの能力がないのだから、諦めなさい」というカウンセリングが必要なのだけれど、そのような作業を担当する社会的機能は、いまは誰によっても担われていない。
問題は心理的なものだという点については山田さんにまったく賛成である。
けれどもその心理的な欠落感をどうやって埋めてゆくのか、ということについては、「逆年金」や職業訓練や「パイプラインの補修」など、山田さんが提示したもの以外にも、いろいろなやり方があるだろうと思う。
重要なのは「哲学」だと私は思っている。
人間の社会的能力は「自分が強者として特権を享受するため」に利己的に開発し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れるために」、その成果をひとびとと分かち合うために天から賦与されたものだ。
そう考えることのできる人間たちによって、もう一度破壊された「中間的共同体」を再構築すること。
「喜び」は分かち合うことによって倍加し、「痛み」は分かち合うことによって癒される。
そういう素朴な人間的知見を、もう一度「常識」に再登録すること。
それが、迂遠だけれど、私たちが将来に「希望」をつなげることのできるいちばんたしかな道だろうと私は思う。
どちらにせよ、この本はいま若者である方たちと「元若者」になりつつある不安定就労者のみなさんに熟読して欲しい。
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