橋本治さんとの二回目の対談。
前回は「ちくまプリマー新書」の創刊記念の販促キャンペーンという単発イベントだったのであるが、そのときに橋本さんと4時間わいわいしゃべった話がたいへんに面白かったというので、筑摩書房の吉崎さんが「もう一回やって、本にしましょう」という企画を出してこられたのである。
橋本先生は私の二十代からの「アイドル」であるから、私の側に否応のあるはずがない。
橋本先生は「やなもんはや」の人であるが、この対談はさいわいにも「や」じゃなくてご快諾頂けたのである。
午後4時に山の上ホテルの一室に集合して、それから9時半まで、5時間半にわたって、話しまくる。
でも、話していたのは90%は橋本さんで、私は「へえええええ」とか「そ、そうなんですか」というような間抜けな相づちを打つばかり。
とはいえ、橋本治のエクリチュールのメカニズムについてこれほどまで深く踏み込んだインタビューは前代未聞と申し上げてよいであろう。
私の書いた本がすべて「歴史のゴミ箱」に投じられて、私の名がすべての人の記憶から消えたあとも、「橋本治が『桃尻娘』から『窯変源氏物語』にいたる作品のバックステージ情報を全公開」したこの対談本は「橋本治研究の必読文献」として末永く日本の文学研究者によって読み継がれるはずである。
「で、この対談相手のウチダって、誰なの?」
「ウチダ? 知らないなあ。なんだか、『へええ』って言ってるばかりで芸のないインタビュアーだよね」
というような会話が半世紀後のどこかの大学の日本文学の院生たちのあいだで交わされることを想像すると、なんだかうれしくなってしまうのである。
どうしてこの対談本がレア文献になりうるかというと、橋本治の文学についてまともに論じた文芸批評家も研究書も評論も存在しないからである。
嘘だと思うかもしれないが、ほんとうなのである。
橋本さんのところにY売新聞の学芸の記者が『窯変』のあとにインタビューに来たことがあった。インタビューに来る前に新聞のデータベースを検索して「橋本治」についての予備的情報を得ようと調べたら、過去の学芸欄には「橋本治」にかかわる記事がひとつもなかったそうである。
すごい話である。
事実、『桃尻娘』シリーズも『源氏物語』も『平家物語』も『愛』のシリーズも『蓮と刀』シリーズも、これまで文芸批評家によってまともに論じられたことがない。
先般私が『図書新聞』から『蝶のゆくえ』の書評を頼まれたときに編集者が告げたのは、「橋本さんの本の書評って、書いてくれる人がいないんです」ということであった。
たしかに批評家にしてみたら、きわめて扱いにくい素材だろう。
「何考えてこんなものを書いたのか」さっぱり見当がつかないものばかり書いているからである。
まず文学上の系譜がわからない(ご本人によれば先達は鶴屋南北と近松門左衛門らしい)。いかなる文学理論に準拠して書いているのかわからない(ご本人によれば「理論てキライ」ということである)。どれほどの教養があるのかわからない(「底知れぬ」と申し上げてよろしいかと思う)。
批評家が当惑してしまうのは、橋本文学を「自己表現」「自己正当化」「自己弁明」だと思って読もうとするからである。
「この作品を通じて、橋本治はどのような《メッセージ》を語ろうとしているのか? どのような《立場》を正当化しようとしているのか?」
というふうに問いを立てると誰だって何が何だかわからなくなる。
『枕草子』を逐語訳したり、『古事記』を児童書に書き換えたりすることによって「橋本治に何の得があるのか?」という問いを立てても答えが得られるはずはない。
だって、「何の得もない」からである。
「個人的に何の得もないこと」をなぜ橋本治は骨身を削ってやるのか?
そう問えばいいのである。
でも、日本の批評家の中にはそういう問い方をする人はあまりいない。
おそらくは批評家たち自身が「どうすれば自分は他の人間よりも知的に見えるか」という競争に熱中しているので、自己顕示にも自己治癒にもかかわりのない知的営為が存在しうるということがうまく理解できないからであろう。
橋本先生が「個人的に何の得もないこと」を骨身を削ってやっている理由はひとつしかない。
愛、である。
自分の書き物を読む人も、読まない人も、すべての人々に惜しみなく「愛」をそそぐためにのみ橋本先生は彫心鏤骨の文を刻んでいるのである。
なぜウチダごとき三文学者がこの日本文学史に屹立する巨人の対談相手に招かれるという誉れを得られたかというと、ウチダが『デビッド100コラム』とか『アストロモモンガ』とか『シネマほらセット』とかいう、橋本さん自身がいちばん好きな「イタズラ本」の選択的な愛好者だからである。
橋本先生は惜しみなく衆生に愛をそそぐ薬師如来みたいな人なのであるが、そういうことばかりやっていても、誰からも気づかれないので、ときどき、「あー、もうやってらんねー」というふうに「ぐれて」しまうのである。
その「ぐれた」ときに噴出する一群の作品こそ橋本治の「自己治癒のためのテクスト」なのである。
そして、私はそのほとんど無目的で暴走的なギャグの乱れ打ちのうちに橋本さんのいちばんインティメイトな息づかいを感じるのである。
対談本は今夏刊行予定。
タイトルは「タイトル付けの名人」である橋本先生が『仏滅の日にアンチョビを』と即答されたので、それに決定。
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(2005-03-20 11:14)