オレ様化する子どもたち

2005-03-19 samedi

諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)を読了。
なんだか既視感のあるタイトルだな…と思っていたら、三砂先生の『オニババ化する女たち』と一対をなしているのであった。
なるほど、女たちは「オニババ化」し、子供たちは「オレ様化」しているのか。
では、「オニババ」と「オレ様」に囲繞された男たちは「何もの」になっているのであろうか。
当然、「ほにゃらら化する男たち」という新書企画を思いついた編集者が必ずや三人はいるであろう(一人は文春のヤマちゃん、もう一人がNTTのM島くんであることを私はかなりの確度で断言することができる)。
それはさておき。
タイトルはややマーケット・オリエンテッドであるが、内容は掬すべき知見にあふれた名著であるので、読者諸氏にはただちに書店にて購入されんことをつよくお薦めしたい。
いくつかの点というか、ほとんどの点で、私は諏訪さんの考えに共感できる。
諏訪さんの主張は、ある意味、拍子抜けするほど常識的なものである。
ひとつは、学校教育の今日における危機的状況は単一の有責者に帰することのできない複合的なファクターの効果であるということ。
メディアと知識人たちが発信する教育批判のほとんどが「西欧的モデルへのキャッチアップ」への焦燥と「子供=聖なるもの」というイデオロギーが伏流していること。
その上で、諏訪さんはいったい学校教育の現場では「何が起きているのか」をイデオロギー的な先入主を抜きにして、ありのままにみつめようということを提言している。
諏訪さんが指摘しているのは、変ったのは学校ではなく、社会の方だということである。
勘違いしている人が多いが、子供というのは、そのときの社会におけるドミナントなイデオロギーにもっとも洗脳されやすい。
授業中に私語をして、教師が注意すると「しゃべってねえよ、オカマ」と怒鳴り返す中学生、喫煙の現場をおさえられて注意する教師に「吸ってない」と言い張る高校生、カンニングペーパーを発見されても「見てない」と言い張る高校生たちの「不可解な」行動を諏訪さんは、彼らが「商取引」における「等価交換」の関係を教育の場に持ち込んできたことの効果であると考える。
つまり、彼らは自分がした「行為」とそれに対する「処罰」が等価交換でないことに怒っているのである。
教師による処罰は、子供たちを「社会化」「公民化」するための教化的なバイパスである。それは直接に喫煙やカンニングという行為を照準しているのではなく、ある私的な行為がその主観的意図とはかかわりなく、公的空間では別の水準での「解釈」にさらされるという「公私のフリクション」を教えるためのものである。
例えば、喫煙がなぜ「悪い」のかということを合理的に高校生に説明できる教師はいない。
それは「共同体におけるフルメンバーとはどのような人間のことか」ということについて熟慮したことのある人間にしか答えのでない問いかけであり、もちろんそのような人類学的回答は人生経験の足りない高校生の頭では決して理解できないから、結果的には誰も説明できないのである。
あるいはカンニングがなぜ「悪い」のか。
これもきちんと説明できる教師はいないだろう。
「フェアネス」ということの重要さにまだ気づかない人間に「フェアネス」の原理を説いても始まらない。
つまり、学校が「規則」を通じて教えているのは、「学校には規則があり、教師たちはその遵守を子供たちに要求するが、その規則の起源を教師たちは言うことができない」という(人類学的=類的スパンにおいては合理的なのだが)個人的=短期的スパンを取るとまったく意味不明の事況に子どもたちをなじませるためなのである。
この「ぜんぜんはなしがみえねーよ」的事況を混乱のうちに通過することによってしか子供は大人になることができない。
しかし、今の子供たちは、それに耐えることを拒絶している。
カンニングや喫煙をする子供たちは、学校側が用意する「処罰」と自分の「行為」を「合理的に」勘定してみて「引き合わない取引」だと思っている。

「彼および彼女は自分の行為の、自分が認定しているマイナス性と、教師側が下すことになっている処分とをまっとうな『等価交換』にしたいと『思っている』。(…) そこで、自己の考える公正さを確保するために、事実そのものを『なくす』か、できるだけ『小さくする』道を選んだ。これ以降、どこの学校でも、生徒の起こす『事件』の展開はこれと同じものになる(今でもそうである)。」(83-84)

この「等価交換」を求める消費主体としての全能的「オレ様」の立ち上げという諏訪さんの子供解釈はたいへんに汎用性の高い知見だと私は思う。
すべての頁に私は「おおお」と赤鉛筆で線をひいてしまったが、いちばんたいせつと思われる箇所を最後にひとつだけ引用しておく。

「私たちは、生活のすみからすみまでお金が入り込んでいる生活を、初めて経験している。朝から夜まで『情報メディア』から情報が入ってくる生活も初めてである。お金がお金を生み出す経済の運動のなかに完全にまきこまれている。子どもたちが早くから『自立』(一人前)の感覚を身につけるのも、そういう経済のサイクルに入り込み、『消費主体』としての確信をもつからであろう。子どもたちは今や経済システムから直接メッセージを受け取っている(教育されている)。学校が『近代』を教えようとして『生活主体』や『労働主体』としての自立を説くまえに、すでに子どもたちは立派な『消費主体』としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校に入って、教育の『客体』にされることは、子どもたちにとっては、まったく不本意なことであろう。」(222頁)

子供がこの先幸福に生きて行くためには、「教育の客体」という立場をあえて引き受けて「生活主体」「労働主体」としての自己形成をたどることが不可欠であると考える親たちがいる。そのような親たちの子どもは「学び」に向かうだろう。一方、そのような文化資本を持たない家庭の子どもは「学び」から逃走するだろう。
諏訪さんはそう予測している。
親の教養の差、文化力の差、人間についての洞察の深さの差。そのようなものを「前期消費社会」は資産にカウントする習慣がなかったが、私たちが踏み入りつつある「後期消費社会」においては、それが階層分化の決定的なファクターになる可能性があるという諏訪さんの仮説は私にはとても刺激的なものであった。
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