極楽スキーに続いて週末は極楽麻雀。
前回と同じく、箱根湯本の「よし行け」旅館に兄ちゃん、平川くん、石川くんが13日夕刻に集合。
今回は去年9月に続いての二回目。
「そのうち、温泉で麻雀でもやろうよ」
「お、いいねえ」
というような会話をここ何年か正月に会うたびに交わしていたのであるが、忙しさにまぎれてなかなか実施に至らなかった。
しかし、旧友竹信の急死の報に接して、「じゃ、そのうちにゆっくり会おうよ」というような悠長な約束は「そのうち」にたどりつかないうちに「今生の別れ」によって反古になる可能性が高いことを思い知らされた。
そのせいもあって、私は極楽麻雀はこれは万障繰り合わせて断行せられねばならないという決意にひそかに期するところがあったのである。
「よし行け」に七ヶ月に一度結集し、四季折々の箱根の景観と山海の珍味を喫しつつ、お互いの健勝を言祝ぎ、日頃の疲れを温泉と清談と60年代ポップスと麻雀によって癒そうではないかという「極楽麻雀」の企画はそのような歴史的経緯があって、2004年9月より鉄の意志をもって実施されるに至ったのである。
新幹線の中で、三砂ちづる先生との対談録のなおし。
これは去年4回やった対談セッションをテープ起こししたもので、本は晶文社から出る予定。
対談本の校正ばかりこのところやっている。
相手はかわるが、こちらは同じ人間がしている話なので、似たような話ばかりしている。読み直すと「あ、これあの本でも話してたネタだなあ…」という箇所が散見される。
なんだか本を買ってくれる読者に申し訳がない。
そこで、使い古しネタをばっさり切って、新ネタをこりこり書き込んでゆく。
いま思いついた話なので、前後のつながりを整えるのがけっこうむずかしい。
2時間ほどやっているうちにパワーブックのバッテリーが切れたので、仕事を切り上げて、本を読む。
まず『中央公論』4月号の「特集・学力崩壊 若者はなぜ勉強を捨てたのか」を読む。
いろいろな人が寄稿しているが、その中では「希望格差社会」の著者である山田昌弘さんの「パイプラインシステムの破綻」という原因指摘に説得力があった。
大学医学部を出ると「医者」になれる。
大学院の博士課程を出ると「大学教員・研究者」などにたどりつく。
というふうに、「出口」で就ける職業が安定的に確保されている学校教育システムを「パイプラインシステム」と呼ぶ。
ところが産業構造の変化にともなって、このシステムが変調を来した。
「出口」が急速に変化し、細り始めたのである。
にもかかわらず、パイプそのものの構造や口径は以前と変っていない。
大学院の場合などは出口がどんどん狭くなっているときに、逆にパイプの口径を拡大してしまった。
「パイプがなくなった」というのではない。
パイプに入っても、どこへ出られるのかの予測が立たなくなったのである。
「大卒だからといってホワイトカラーになれないということは、大学に行かなくてもいいことを意味しない。大学にいかなければホワイトカラーになるのはもっと難しいということである。」
これはかなりストレスフルな状況だ。
パイプから漏れた人にとって、小学生から営々として積み重ねてきた勉強が「ムダ」だったということになるからである。
「勉強してもリターンが確実に期待できない」という不安が、勉強に対するモチベーションを弱め、学力低下を招く。
と山田さんは説明している。
これは誰にもよく納得の行く説明だ。
もう一つ、「とりあえずパイプには入れる」ということがかえって適切な自己評価を妨げるという問題点がある。
大学はもう「全入」に近い状態だし、専門学校もいくらもあるし、親は教育投資を惜しまない。
とりあえず「パイプ」には入れる。
このあと運さえよければ、はなやかな職業について、お洒落なシティライフを送れるかも知れない…という夢だけは節度なく膨らむ。
しかし、実際には、ひとにぎりの卒業生しか、そんな予定通りの仕事には就くことができない。
「同じパイプ」から出たにもかかわらず、一部の卒業生たちは期待通りの職業に就けた「教育勝ち組」になり、その他は「教育負け組」にカテゴライズされる。
例えば、同じ大学院博士後期課程を出ても、大学の専任教員になれた人間と非常勤講師をしている人間では、待遇は天と地ほど違う。
大学院で受けた教育に差がなく、本人の研究能力にも差がないのにもかかわらず、社会的待遇にこれだけ差が出ると、学生たちは大学院を職業教育機関としてはもう信頼できなくなるだろう。
明治以来、日本の学校教育が機能してきたのは、「どのくらい勉強すれば、どのような職業に就けるか」の相関が安定的だったからである。
努力に見合うアチーブメントが保証されなければ、当然にも努力する動機は損なわれる。
私は山田さんのこの指摘に80%賛成で、20%ほど留保がある(反対というわけではないけど)。
20%というのは、ある職業に就ける確率が上がれば人間の学習意欲が上がり、その確率が下がれば学習意欲が下がる、というほどにことは簡単ではないように思えるからだ。
院生のころ私は「大学の教師になりたいけど、たぶんなれないだろう」と思っていた。
なにしろ専門はまるで知る人のいないフランスの哲学者であり、研究業績への評価はほとんどないに等しく、留学経験も学位もなく、フランス語の学力に大いに問題があることは本人も熟知していたわけであるから、将来について楽観的になれるはずがない。
博士課程を出て、オーバードクターを何年かして、それでも専任の口がなければ、あきらめてまた会社勤めをしようと思っていた。
でも、そのことは私の学習意欲をそれほどには損なわなかった。
というのは、「いずれサラリーマンになってしまうのだとすれば、思い切り勉強できるのは、今しかない」と考えたからである。
「結果をどう評価されるかという期待で不安になること」よりも、「自分がやりたいことを思い切りできる今の身の上を幸運と思うこと」を優先させたのである。
だから、博士課程において、私は学力は決して高くはないが、研究のモチベーションだけは非常に高い院生だった。
そのとき私は「こうやってばりばり勉強していれば、きっといつか『いいこと』がある」という未来予測の確かさに支えられて勉強していたわけではなく、「こうしてばりばり勉強できるという『いいこと』が経験できるのは、いまだけかもしれない」という未来予測の不透明性ゆえに勉強していたのである。
学問研究というのは、わりと「そういうもの」ではないかと思う。
例えば、学徒出陣で応召した学生たちの中には、入営の直前まで専門書を手放さなかった者がたくさんいた。
それはその専門研究が軍隊で大いに役立ち、かれの昇進や延命に資することが期待されていたからではない。
むしろ、そのような知的活動の価値が軍隊では顧みられないことが確実であるがゆえに、知的渇望が亢進したと考える方がロジカルだろう。
私は山田昌弘さんに異論があるわけではない。
でも、学習を動機づける人間的ファクターの中には、「努力に対する将来的リターン」の期待だけではなく、「努力そのものから得られる知的享楽」も含まれるということを言っておきたかったのである。
そして、たぶんいまの学校教育でいちばん言及されないことのひとつが、「学ぶことそれ自体がもたらす快楽」だということである。
続いて諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)を読む。
これまた「うううむ」と唸るような卓見にあふれた好著である。
これは山田さんの問題指摘の第二点、「適切な自己評価ができなくなった子どもたちの出現」のもたらす災厄についてきわめて透徹した現状分析を行っている。
まだ読み終えてないけれど、ここまで読んだ範囲では非常に重要な問題提起をしている本だと思う。
読み終えたら改めてコメントすることにする。
本を読みつつ宿につき、兄ちゃん、平川くん、石川くんとの「極楽麻雀社中」と久闊を叙し、ただちに露天風呂・ビール・山海の珍味・60年代ポップスを聴きながらの爆笑麻雀大会に突入。
二日間にわたる「極楽デスマッチ」で命の洗濯をする。
あああ、極楽。
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(2005-03-15 23:18)