シニカルでリアルで勉強の嫌いな若者たち

2005-03-13 dimanche

「週刊文春」の書評欄に鹿島茂さんが『先生はえらい』の書評を寄せてくれた。
「これは名著である」で始まる書評で、本のかんどころをぐいぐいと引用した、たいへんありがたい書評であった。
鹿島さんは別のところでも『寝ながら学べる構造主義』を好意的に取り上げてくれたし。
本来であればご拝顔の上御礼申し上げるべきところであるが、取り急ぎウェブサイトを借りてお礼申し上げることにする。
鹿島先生どうもありがとうございました。

首都大の志願者数の最終結果がわかった。
報道によると、意外にも志願者が、昨年の各都立大学の志願者合計を約千五百人上回ったそうである。
これについての産経新聞の記事によれば

「大手予備校の河合塾は志願者数について『昨年を下回ると予想していたので増加して驚いている』としながら、受験生が増加した理由を

(1)ほとんどの受験産業が『志願者減で入りやすくなる』と分析していたことから、受験生が『穴場』とみた
(2)他の国公立大と比べて受験科目が少ない
(3)受験生の現役志向が強まっている

などと分析。『受験科目が増える来年は、志願者は減るのではないか』としている。」

ご存じのとおり、私の予想は「志願者激減」というものであったので、予備校同様に予想は外れた。
株式市場における投資者と受験市場における志願者の動向はまことに予測しがたいものである。
だが、ブログ上であれこれ発言した以上、ここはある程度の説明責任を果たされねばならない。
上記河合塾の説明によれば、志願者のマジョリティをなすのは「首都大東京の教育理念がいかなるものであるかを知り、大学の組織的混乱を熟知した上で、それを入りやすい大学を意味する情報として受け止めた、シニカルかつクールかつあまり学力に自信のない受験生」群である。
当然それ以外に、「首都大についての特に詳しい情報を知らず、予備校の資料を見て、偏差値と受験科目だけで選んだ志願者」と、おそらく少数ではあろうが「石原慎太郎の教育理念に熱く賛同して選んだ志願者」がいるはずである。
この三者によって志願者群は構成されているが、圧倒的多数は河合塾の方が言うとおり、「シニカルかつクールかつあまり学力に自信のない受験生」であると考えてよろしいかと思う。
この受験生像はある意味では現代の18歳の「徴候的な肖像」を示していると言えるのかも知れない。
彼らは「どこかに学びの機会を提供してくれるすばらしい大学が存在する」というようなナイーブな幻想をおそらくはとうに失っている。
日々の報道に接して日本社会のエスタブリッシュメントのモラルハザードや無能や組織的な機能不全を知れば、未来に対してシニカルにならざるを得ない。
当然、そのような現状認識が高校生の学びへの動機づけを強めるはずがないから、彼らはあまりまじめに勉強に取り組むことができない。
そのような若者の、「だから、首都大」というチョイスを私は批判することができない。
このような受験生を組織的に生み出してきたことを私たち日本社会の成人メンバーはやはり恥じなければならないと思う。
彼らが学びへの動機づけを失ったのは、ひとつには大学が彼らをつよく惹きつけるような知的な求心力を失ってしまったからであり、ひとつにはそこで獲得した教育的キャリアが少しも明るい未来を約束しない、希望のない社会が彼らの前にひろがっているからである。
そのような現状をもたらしたのは、私たち大人の責任である。
首都大志願者激増という報道は「受験生は大学の教育的コンテンツにはほとんど何も期待していない」という事実を私たちに思い知らせてくれた。
この事実は、首都大東京の貧しい教育理念よりもある意味ではずっと深く私を不安にさせる。
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