狼少年のパラドクス

2005-03-12 samedi

昨日は一日自己評価委員会最終報告書の「自己点検・評価」項目を書いていたので、肩がばりばりに凝ってしまった。
べつに文部科学省や大学基準協会に提出する正式書類ではなく、学内的な報告書なので、そんなに必死に書かなくてもよいのであるが、4年後の認証評価のための基礎ドキュメントになるわけだから、次期委員長でFDセンター初代ディレクターの遠藤先生のお仕事を少しでも軽減するために、できるだけ必要な情報をコンパクトにまとめて残しておかなくては…とまじめに執筆してしまった。
しかし、例えば次のような評価項目にどうお答えしたらよろしいのであろう。

「自己点検・評価結果の客観性・妥当性を確保するための措置の適切性」

自己点検・評価というのは、いわば自動車の仕業点検のようなものである。
ちゃんとブレーキは効くか、タイヤの空気圧は大丈夫か、ランプは点くか、オイルはあるか…というようなところをチェックするわけである。
その自己査定の「客観性・妥当性」はどうやって確保するのであろうか。
原理的には方法は二つある。
ひとつは査定に熟練したプロに見て貰うということ。
ひとつはその車を実際に運転して、トラブルが起きたら泣くのは自分だという当事者意識をもつこと。
自己評価の妥当性を最終的に担保するのは、ほんらいなら「当事者意識」だろうと私は思う。
自分がこれから運転する車のブレーキが効かないのに、「平気ですよ、これくらい」と笑い飛ばすことができる人はいない。
ところが、自動車じゃなくてものが大学となると、それを気にしないでいられる人が現にいる。
「あの、ブレーキが効かないみたいですけど…」という勧告に、「でもオーディオの音質は最高だから」とか「ローズウッドのパネルがきれいでしょ」というような答えで応じてくるのである。
どうしてそうなるかというと、「ブレーキが効かなくなった」という指摘を「非難」というふうに解釈されるからである。
別にこちらは「あんたが壊したんだろ、責任とれよな」と言っているわけではないのに、そういうふうに取ってしまわれるのである。
困ったものである。
すぐれた医者は決して患者を責めないということを前に書いたことがある。
たしかに多くの病気はご本人の生活習慣や健康管理の悪さに起因するのは事実であるから、患者を責めて「お前のせいだ」と言うのは簡単なことである。
でも、そう言われて「よし、これからは生活習慣を改めるぞ」というふうになるかというと、ほとんどの場合はそうならない。
ふつうは「叱る医者」のところから足が遠のくだけである。
医者から足が遠のいたせいで健康が回復するということはあまりない。
患者が嬉々として医者のところに繰り返し通うように仕向けるのが名医である。
それと同じく、組織の機能不全についても、それを他責的な語法で語るのは、ロジカルではあるけれど、実効性がない。
歯周病が悪化するのは、私のブラッシングが足りないせいなんだけど、それについては触れずに、あえて「歯が悪い」と、歯のせいにして、患者を免罪するのが呪術医の骨法である。
「患部と患者」を共犯関係にくくりこむよりは、「患部」をワルモノにして、「患者と医者」が共同原告団として「歯」を責める、という話型は治療の方法としてはたいへんに効率的なのである。
「なんてひどい歯なんでしょう。これじゃ、あなたも大変ですよね。気の毒に…」と言ってあげれば、患者は「歯の悪行」を逐一報告すべく、医者のもとにいそいそと通うことを厭わなくなる。
じゃあ、自己評価もそういうふうにすればいいかというと、これがなかなかそうもゆかないのである。
というのは、池上六朗先生もつとにご指摘されているように、そうなると患者は医者を喜ばせようとするからである。
患者は「この辺が悪いんじゃないかな」と指摘された患部が指摘通りに痛むことによって医者に「迎合」しようとする。
「ここが痛いんじゃない?」と言われると「あ、そこです、そこです。そこ、すごく痛いです」と答えるというのは、「え、そうですか? そこ痛くないですけど」と答えるよりも心理的に負荷が少ない。
というのは、「ここ痛い?」に対して「あ、そこ痛いです」というのは紛れもなくある種の「みごとなコミュニケーション」だからである。
不快感の同定についてのコミュニケーションの成立がもたらす快感はしばしば症状の消失がもたらす快感を上回る。
それはくだらない人間の話を聴いて「くだらねえことを言ってやがる」と内心憤然としているときに、横にいる人がぼそっと「くだらねえなあ」とつぶやいてくれたときの「おおお、キミもそう思う?」という共感のもたらす快が、その「くだらない話」を聴くことによる不快を上回ることがあるのに似ている。
人間というのはまことにややこしいものである。
で、話を元に戻すと、「自己点検・評価の客観性・妥当性を確保するための措置の適切性」なのであるが、たしかに論理的には一番適切なのは、「自己」としての当事者意識をもつことなのである。
だが、当事者意識を持つと、問題点・改善点の指摘を「非難」と解してコミュニケーションを閉ざすか、問題点・改善点の指摘に「迎合」して、無意識的に「病状」の劇的な徴候化を望むようになるか、いずれかになってしまうのである。
四年間自己評価委員というものをやって、私自身がよくわかったのは、私が「迎合」タイプの人間だったということである。
この四年間、さまざまな情報を精査して、「おお、このあたりが問題点・改善点だな」と思った組織的欠陥は多々ある。
その結果、私が何をしたかというと、どちらかというと「ますます病状が劇的に徴候化する」方向に棹さしたのではないか…という感が拭えないのである。
だって、そうでしょ。
せっかく「ここが問題です」とご指摘申し上げたのである。
指摘して差し上げたのに、「なんでもなかった」というのでは、私の「誤診」ということになる。
それでは私の批評的知性の適切性にいささかの曇りが生じるではないか。
「狼少年のパラドクス」というのは、「狼が来た」という(それ自体は村落の防衛システムの強化を求める教化的な)アナウンスメントを繰り返しているうちに、「狼の到来」による村落の防衛システムの破綻を無意識的に望んでしまうことである。
組織的欠陥の自己評価のむずかしさはここにある。
「欠陥はない」という言い逃れで問題点を隠蔽して責任を回避しようとする人間と、「欠陥がある」というおのれの指摘の正しさを事実で証明するために、組織的欠陥があらわに露呈するような状況の到来を待ち望むような人間の二種類の人間を作りだしてしまうということである。
というわけで、「自己点検・評価の客観性・妥当性の確保のための措置」についての私の回答は、「あらゆる自己点検・評価は、自己の欠点を過小評価する人間と、自己の欠点を過大評価する人間を構造的に二極化するという事実をクールかつリアルに受け止めること」というところに落ち着くのである。
そんなことを申し送られても遠藤先生は少しもうれしくないであろうが。

夕刻からヒルトンで温情会。
その遠藤先生から4月29日の教員研修会のプログラムの案を求められる。
何も考えていなかったので、困り果てる。
とりあえずご飯を食べながらまわりの先生たちにご相談してみますと言ってみるが、いざシャンペンなど呑んで、わいわいしゃべり出すさっぱり案は出ず、困った困ったで終わってしまった。
とりあえず、「大学淘汰の時代」の現況について、教員全員に現状認識を共有していただくということが何よりも必要なので、その点についてリアルかつクールな情報提供をしてくれる方に講師をお願いしたいのであるが、急な話なので、なかなか候補者を思いつかない。
大学人よりも、予備校の進路指導の人とか、企業の人事の人あたりがいいのかもしれない。
このHPをご覧のかたで、「この人どうです?」あるいは「私でどうです?」という耳より情報があれば、ぜひお知らせ頂きたい。
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