オーラと嘘

2005-03-03 jeudi

ああ、よく寝た。
ゆうべ9時半におふとんに入って、目が覚めたら8時だった。
10時間半寝た。
昨日はやたら眠くて、一日3つの会議のほとんどをうつらうつら半睡状態で過ごしていたが、その分をリカバーして今日はすっきり。

1日は後期入試。
さいわい後期は駆け込みで志願者が増えて、結果的には秋にはじまったAO入試からの総計では志願者数は前年比100%をキープできた。
18歳人口が5%減の中での100%ということは、実質増ということであり、これは大学淘汰の荒波のなかでは「大健闘」と申し上げてよろしいと思う。
人間科学部の新学科や、英文科の通訳コースなど、制度改革への志向が奏功したのであろう。
しかし、「奏功」と書いてはみたが、いったい大学側の自助努力がどういう回路でマーケットに伝わるのか、これが実はよくわからない。
別に受験生やその親たちにだって、大学の学科編制やカリキュラムのコンテンツを吟味査定できるほどの専門的知見は備わっていないはずである。
にもかかわらず、大学側が試みるある種の変化は評価され、ある種の変化は評価されない。
では、受験生やその親たちや高校や予備校の教師たちは大学改革の「何を」見ているのか?
私はたぶん「勢い」というようなものが有形無形に作用しているのではないか、というふうに考えている。
「勢い」というのは、いろいろなかたちを取る。
例えば、ワンマン経営者がトップダウンで全面的な制度改革を教授会自治をふみにじって断行するというような場合でも、その経営者になんらかの熱い「夢」や「野望」のようなものがあれば、その大学がある種の「オーラ」が発するということはある。
全員が合意した改革でも、ずるずると流れに押されて、弥縫策的に採用したようなものであると、「オーラ」は出ない。
「オーラ」の出具合は、制度の「整合性」とは関係がない。
制度の「強度」と関係がある。
その制度改革についての賛否の議論に費やされた時間やエネルギーや汗や涙などは決してドブに流れてゆくわけではなく、その制度の「強度」に回収される。
小利口な経営者がひとりで電卓を叩いて起案したものと、数十人が数百時間の議論の末に起案したものは、できあがりが似ていても「強度」が違う。
その感じは、外からでも「わかる」のである。
「どこが?」と問いつめられると困ってしまうが、そういうものなのである。
「パブリシティに金をかければ、もっと志願者は集まる」という議論が学内でもよく口にされる。
これは正しい。
でも、ただ「パブリシティに金をかける」だけでは「オーラ」は出ない。
「パブリシティに金をかけなきゃダメですよ」という主張をする人と「なこといっても原資がないよ」という人と「宣伝で人を集めようという性根がいやらしい」という人などが口角泡を飛ばして議論しているような大学、あるいは、そういう議論が可能であるような大学は「オーラ」が出る。
ことの順逆が違うのである。
マーケットは目に見えるアウトプットを評価しているのではなく、目に見えないポテンシャルに感応しているのである。
大学というのは「ごちゃごちゃしたところ」である。
複数の価値観が混在して、それが対話し対立し和解し妥協する「コミュニケーション・プラットホーム」である。
そのコミュニケーションの運動性だけが大学のアクティヴィティを支えることができる。
その点において高等教育は、初等中等教育と差別化される。
初等中等教育までは、同一の価値観をもち、同一の制服を身につけた、同一の家庭環境の子供たちが、同一のカリキュラムで、全級一斉になされる授業によって、できるだけ同じタイプの進路を選択することが理想とされる。
少なくとも親たちや教師たちはそれを望んでいる。
でも、大学は違う。
大学で行われている教育の質についての汎通的・外形的な査定基準というものは存在しない。
大学の価値は大学自身が基礎づけなければならない。
大学の価値は「おのれ自身の価値をみずから基礎づけようとしている努力の総量」によって計測されるしかない。
それを私は「強度」とか「オーラ」というわかりにくい言葉で表現しているのである。

2日は会議。
最後の科別教授会の終わりに、1,2年生のゼミでの教育実践の報告のための時間がとられた。
四人の教員が報告を行う。
私も報告をした。
どのようにして学生の「書くこと」への欲望に点火するか…というのが私のここしばらくの個人的な課題であるので、そのことをお話する。
学生の作文は、評価する教員の方を向いて、その相手に合わせて「自分が思っていること」を語る。それは相手が教師である場合にのみ選択的に想起される「自分が思っていること」である(このネタは先日このHPにTBしてくださった方から教えていただいた。さっそく板倉聖宣先生の本も買いました。ご教示に感謝します)
他者の語法によりそって語ると、人はしばしば思っている以上に饒舌になる。定型的な語法 cliché の習得はその点で教育上効果的である。
しかし、定型的な語法を適切に使い分ける技法の習得と「自分が思っている本当のこと」を固有の語法で述べることのあいだには根本的な矛盾があるが、この矛盾に耐えることを通じてしか人間の言語能力は磨かれない。
現在の学校教育ではこの「矛盾」が隠蔽されており、その結果、子供たちはしばしば狭隘な社会集団に固有の「符牒」jargon や「社会的方言」sociolecte をそれと気づかぬまま「自分のことば」と取り違えている。
子供たちに正負両方の「ことばの力」を知らせるためには、この矛盾を隠蔽するのではなく、むしろ主体的に経験させることが効果的であるように思われる。
私は基礎ゼミの最後の課題として「嘘の作文」を課した。
それは18,9歳の学生たちに、「35歳の1月7日の日記」を書かせるという課題である。
この課題で、学生たちは「本当のこと」を書かなくてもいい(というより書くことができない)。
たしかに、「私」と名乗る人物がこの文章を書いているのだが、それは「私」そのものではないが、部分的には「私」である。
このような背理的な立ち位置が実は書くときにもっとも人間のテクスト・パフォーマンスを高めるということを実感して欲しかったのである。
高橋源一郎さんは夏の集中講義の最後で「舞姫2004」「野菊の墓2004」「虞美人草2004」「金色夜叉2004」など、講義で取り上げた小説の「2004年ヴァージョン」を学生に書かせた。
話の枠組みが決まっていて、登場人物が決まっているという制約の中で、学生たちは驚くほど個性的な、それぞれの無意識的欲望やイデオロギー性を露出させるようなテクストを書いてきた。
「定型」的制約を課すこと、あえて「フィクション」を書かせること。
それによって、「ほんとうのことを言おう」と思っているかぎり口にされないことが語られるという背理は、ある意味では諸刃の剣のように危険なものである。
だが、私たちがこの背理的教育原理の扱いに習熟してゆくならば、学生たちの言語運用能力の飛躍的な解発を果たしうるのではないかという希望を私は持っている。
というような話をした。
さて。来年度はどんなことをしてみようかしら。
毎週小説を書かせるということをしてみようかな。
うん、これは面白い。
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