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2005-02-25 vendredi

『文藝春秋』からアンケートが送られてくる。
「あなたは日本の次の首相には誰になって欲しいか? その理由を400字以内で述べよ」というものである。
これはむずかしい。
これに即答できる日本人がいったい幾人おられるであろう。
アンケート用紙を眼光紙背に徹するまで熟視すること五分。
私の脳裏にはついに一名の名前も浮かばなかった。
別に「人物払底の時代である」というようなことを申し上げたいのではない。
だって、考えてみても、二十歳で選挙権を頂いて以来、「この人に総理大臣になってほしい」というような政治家の名が私の脳裏に浮かんだことなど一度もなかったからだ。
別に今に始まったことではない。
にもかかわらず過去35年間、日本が一度も他国の軍隊に侵略されず、とりあえず法治国家であり続け、通貨の安定を維持してこられたということからして、「私にとって理想的な政治家がいない」ことが日本社会にとって致命的なことではないということが知れるのである。
むしろ、「私にとって理想的な政治家がいない」というような多くの日本人に共有された「あらかじめ失われた期待」のおかげで、大衆的な人気に乗じるデマゴーグ型政治家の出現が阻止されてきたというふうに前向きに考えることだってできるわけである。
「政治家というのは有権者よりも知的にも倫理的にも優れていない」
という事実が周知のものとなったことによって、政治のもたらす害悪はあるいは軽減しているとも言えるのである。
「小成は大成を阻む」ということばがある。
同じように「小さな不幸が大きな不幸の出現を阻む」ということもあるのかもしれない。
うん。
何でも前向きに考えよう。
あ、そうだこの文章をそのまま『文藝春秋』のアンケートに書いちゃえばいいんだ。
義理も果たせるし、原稿料ももらえる。
何でも、前向きに考えてみるものである。
その文春のヤマちゃんから電話がかかってくる。
『先生はえらい』を読んで感動したので、その感動をお伝え下さったのである。
ヤマちゃんは角川書店から『疲れすぎて・・・』を出したときの担当編集者である。その後、文春にコンバートして、先日の『寝な構』五万部記念パーティには新書の嶋津さん、『文學界』の山下さんともども神戸まで遊びに来てくれた。
ヤマちゃん相手に、今後のメディアのとるべき方向について熱く語る。
やはりこれからは「韓流」だね、ということになる。
「韓流」TV ドラマに私が深く惑溺していることは既報の通りである。
『冬ソナ』にはいまだ手が届かないが、それまでの「つなぎ」に見始めたペ・ヨンジュンくん、チェ・ジウちゃんの出世作『初恋』は全66話のうち、ついに36話にまで到達した。
ようやく道半ばを越えた訳である。
寒風ふきすさぶ年頭に見始めて、すでに陽春の候。思えば長い道のりであった。
しかし、長いねえ。66話ですよ、66話。
一話70分。
全部見ると77時間ですよ。
これだけの時間をチャニョクとチャヌとヒョギョンとソクチンとソッキとシンジャとドンパルと過ごしてくると、さすがに20話を越えたあたりから登場人物たちに「身内」のような親しみが湧いてくる。
「チャヌ、飯は食ったか?」
「ドンパル、おまえはいい奴だな」
私はNHKの朝の連続TV小説というのを見る習慣を持たない人間であるが、あれの及ぼす「麻薬的」な習慣性がよくわかる。
そんな話をしたいのではない。
「韓流」ドラマで私が感動したのは、かの若者たちの驚くべき「礼儀正しさ」である。
父親が「いいからそこに座れ」というと二十歳すぎた青年がうなだれて正座する。
酒席で年長者から注がれるまでは杯に手を出さず、飲むときも横をむいて杯を干す。
子は親に仕え、妻は夫を立て、部下は上司に忠実に従う。
よい習慣である。
日本のTVドラマで、「いいから、ここに来て座れ」という父親の説教に「はい」とうなずいて、その峻厳な叱責に涙ぐむ青年主人公などというものが描かれたことが過去15年間にあっただろうか?
私は「なかった」と思う。
「夫という字は『天』の上に点一つだ。これは『夫は天よりえらい』ということである。家族よりも誰よりも、まずおまえの夫をたいせつにしなさい」というような父からの説教に「はい」とうなずいて頬を赤らめる娘などというものをあなたは日本のTVドラマで見たことがあるだろうか?
私はない。
その代わり、「うっせんだよ。オヤジはよ」とか「黙ってろよクソババア」というような台詞なら毎日何度でもドラマの中で耳にすることができる。
おそらくTVドラマの制作者は「私たちは日本の現実をそのまま忠実に描いているだけです。現実にそうなんだからこれはリアリズムですよ」といいわけするであろう。
しかし、物語と現実というのはそんな単純なものではなく、ある種のループをなしている。物語は現実を映し、現実は物語を模倣する。
だから、提供される物語が単一の家族の風景や定型的な人物像だけを集中的に描けば、現実の日本人たちもまたそのような風景や人物像をすすんで造形するようになる。
だって、その方が「リアル」だから。
そう、「TVに出てるみたいなもの」の方が、現実に目の前にあるものよりも「リアル」なのである。少なくとも「リアルであることを主張する力」においては現実を圧倒している。
「TVじゃこうしてるよ」というのと「家では昔からこう決まってるの」というのでは、前者の方に説得力がある。
そのようにして日本中の家庭はTVドラマの家族たちの「せりふ」を模倣する人たちで埋め尽くされてしまった。
これを「嘆かわしいことだ」とする知識人が多い。
私はそうでもないと思う(今日はなんでも前向きなウチダである)。
TVドラマを集中的にみせられたくらいで、日本中が同じ顔つき同じ服装同じ価値観になってしまうくらいに「被暗示性が強い」というのは、ある意味で日本人の最大の強みでもある。
ならば、韓流ドラマをばんばん流せばよろしいではないか。
そんなこと私が言わなくても、すでにばんばん流しているけどね。
そう。
その結果、日本のおばさまたちは、いまどちらかというと「キムタク」よりも「ヨンさま」の方が男性像として「好ましい」という価値観のシフトを経験している。
これはどういうことかというと、彼女たちが息子を育てるときに、「父の叱責に『うっせんだよ』と席を立つ」ような子供よりも「父の叱責に『すみません』と涙ぐむ」ような子供をより好もしいと感じる気持ちがドミナントになるということである。
日本の少年少女たちが親を罵倒したり、足蹴にしたり、刺し殺したりしていることの遠因の一つは、親自身が「そういうのがふつうの子供だ」と無意識にそのような暴力的なメンタリティを「容認」し、そのようにして容認された事実をメディアが「リアルな現実」として垂れ流していることにある。
でも、親の側のマインドセットが変わるだけで、子供は変わる。
子供というのは、親が口に出して言うことはほとんどの聴かないが、親の無意識の欲望には鋭く反応するものだからである。
時代はいま「ディセント」な方向に舵を切りつつある、私はそう見ている。
こういうのは、誰がどうこう旗を振って始まるものではなく、静かに、誰が仕掛けるのでもなく、社会全体が無意識的に方向を変えるのである。
「やっぱり礼儀はたいせつだし、長幼の序は守らなければいけないし、家族は仲良い方がいいし、夫婦も夫唱婦随的の方がやっぱ落ち着きがいいよね」というような方向に日本社会の無意識はシフトしている。
私はそう見ている。
ま、これは私の無意識的願望がかなり色濃く反映した予測ではあるが、人間の無意識的願望が色濃く反映した予測はそうでない予測よりも実現される可能性が高いから、それでよろしいのである。
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