お代官さま、それではわしらは生きていけねえだよ

2005-02-24 jeudi

年貢の納め時がやってきた。
朝から確定申告のために一年間引き出しに詰め込んであった「支払い調書」と「領収証」の束を取り出して、電卓を手に机に向かう。
むかしは確定申告は書類作成から銀行振り込みまで2時間ほどの作業であったのだが、そうもゆかない。
ここで恥を告白しなければならないのだが、私は「足し算に弱い」。
もちろん足し算に弱い人間が引き算やかけ算や割り算に強いということはありえないのであって、当然ながら二次方程式も解けないし、三角関数がなぜピラミッド建築の場以外で必要なのか、微分積分に文学的メタファー以外にどのような使い道があるのかも私にはわからない。
私にわかるのは、数字に「円」という単位がつくと私の四則計算能力が劇的に減退するということだけである。
それまでかなり順調にこの不得意科目をしのいできた私が味わった最初の挫折は中学数学の利息の複利計算においてであった。
複利というシステムを私にはすぐに理解できた。
しかし計算が合わないのである。
何回やっても何十回やっても、そのつど信じられないようなケアレスミスを重ねて、私は決して正解に到達することができなかった。
これはあきらかになんらかの「トラウマ」のなせるわざである。
「トラウマ」というような言葉はこういう時のためにとっておかねばならない。
私が数学が受験科目に含まれている試験を何度か通過できたのは、80%は奇跡であり、20%はそこで用いられる数値に「円」単位が用いられていなかったことによる。
そう。私は「金の計算に弱い」人間なのである。
都立大学の助手時代、私は研究室の年間500万円程度の予算の会計を担当させられた。
これが他のどのような助手仕事よりも私にとっては苦痛であった。
ただの「足し算」なのである。
納品された本と請求書を照合して、予算を使い切るまで買い続ければそれでよいのである。
それが合わない。
朝から晩まで計算しても、年度内に購入した書籍の請求書の総額と会計簿の残金が合わないのである。
私は足し算だけのために土日を潰して研究室に閉じこもって20時間くらい電卓を叩いたことがある。
恥ずかしい話だが、ほんとうなのである。
そして、やっと計算があったら、翌日会計係から電話があって、今年度の特別割り当ての100万円が未執行であるから明日までに全額執行しろと命令された。
お役所というのは、そういうところなのである。
部署予算は最後の1円まで使い切らなければならない。
「使わないからいいです。ほかのもっとお金が要るところに回してください」という常識的な申し出が受け容れられないところなのである。
私は泣きながらフランス図書に行き、「この棚の本ぜんぶ頂戴」という「棚買い」というものをして予算執行を果たしたのであった。
そのような金の遣い方は、税金を払ってくださっている都民のみなさまに対しても、書物そのものに対しても敬意を欠いたふるまいだろうと思う。
それが「二度目のトラウマ」となって、私の四則計算能力はさらに劇的な減退をみたのである。
電卓を叩くこと4時間。
気の利いた小学生なら15分ほどで終えるはずの足し算引き算に私は4時間を投じた。
給与を計算し、指数を乗じて所得を弾き出し、雑収入を足して必要経費を引き、さらに社会保険料、生命保険、扶養者控除、基礎控除を引いて税額を決めて、そこから源泉徴収税額と予定納税額を引けば支払うべき税額はおのずと算出される。
理屈は単純だ。
しかし、計算が合わないのである。
まず給与計算が合わない。
もちろん雑所得の計算も合わない。
源泉徴収税額の計算も合わない。
何回計算しても私の税額は一つ数字に落ち着かない。
泣きたくなってきた。
夕方ついに諦めて、足し算を明日まわしにして、大阪能楽会館に養成会の能を見に出かける。
養成会で、能『鍾馗』、舞囃子『老松』、『玉鬘』を見る。
『老松』は序之舞。大倉慶之助くんの大鼓がぱこーんと響いて、たいへん緊張した舞台で、シテもみごとだったのであるが、すさまじくまぶたが重くなる。ううう眠い。
終わってウッキー、鵜野先生、渡邊さんとロビーで出会い、そのままずるずると亀寿司中店へ。
中トロ、あなご、烏賊、鰺などを食べてお酒を飲む。
渡邊さんが神戸高校で村上春樹さんの1学年下だったという話と、鵜野先生が中野好夫さんの晩年の弟子だったという話を聴く。
軽く切り上げて家に戻り、『サルにもわかる Excel』を取りだして熟読、慣れぬ Excel を使って税額の計算を始める。
やっと計算が合う。
時計を見上げるとすでに日付が変っていた。
翌日、起きてすぐにラポルテ芦屋本館の「確定申告相談窓口」へ。
相談相手の税理士さんが私が机の上にどかんと置いた支払い調書の束をみて、「なんですか・・・あんたは」と絶句する。
一枚に100万円ずつくらい記載してあると「ぬはは」と笑みももれるのだが、「支払い金額2222円源泉徴収額222円」なんていう支払い調書が50枚あっても虚しいばかりである。
とても糊では貼り切れないので、てんこもりにしたままホッチキスで止める。
お上はウチダの給与から源泉で10%を徴税し、印税原稿料からきっちり10%取り、そのお金で購入するすべてのものに消費税を課し、さらに年度末に三ヶ月分の給料手取り額の税金を召し上げられてゆくのである。哀号。
今から銀行に行って普通預金口座の全額をおろして税金を払う。
それでも、去年のように定期預金を解約しなくても税金が払えるだけ幸運としなければならない。
古人曰く。苛税は虎より猛なり。
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