ヨイショ批評再論

2005-02-23 mercredi

なんとなく春休みっぽい気分の日が続く。
本日は『文學界』締め切り以外に特段の用事もない。
昨日書いたとおり、すでに原稿はあらかた出来上がっていて、ちょいちょいと添削するだけである。
締め切り一つだけとは、なんと静かな一日なのであろう。これほど平和な日が私の身に訪れたのは何週間ぶりであろうか。
とりあえず『Emergency Care』という救急医療の専門誌(がどうして私に原稿依頼をしてきたのか謎であったのだが、その後、担当者が女学院の卒業生であったことが判明)のためにさらさらとコミュニケーションについてのエッセイを書く。
1200字というご指定であったのだが、気がついたら2500字も書いてしまった。
ちょうど真ん中当たりに段落があったので、字数オーバーの場合はそこで切ってくださいと無責任なコメントをつけて送信。
続いて小田嶋隆論にとりかかる。
「小田嶋隆の偉大さ」を正面から論じた書き物は管見の及ぶ限りまだ存在しない。
私はご存じのように「ヨイショのウチダ」と異名をとるほどの「ほめ批評の名手」である。
残念なことに、「ほめ批評」をよくする本邦の批評家はほとんど存在しない。
もちろん「仲間褒め」というのはあるけれど、そんなもの読まされても面白くもおかしくもない。
「ほめ批評」は「ごますり批評」とは違う。
それは「なぜ私はこの人をかくも尊敬するのであろうか?」「この人のどこが私の琴線に触れるのだろうか?」という私自身への向けての問いかけをつきつめるものだからである。
私はそのようにしてこの一年間、高橋源一郎論、橋本治論、大瀧詠一論を書いた。
そして今回は小田嶋隆論のリクエストが到来したのである。
私のところにその種のリクエストが続くのは、編集者の方々もまた人間である以上、それぞれ個人的に偏愛している書き手があり、彼らもまた「どうして私はこの人の書くものがこんなに好きなんだろう?」という問いの答えを知りたがっているからである。
「どうして好きなんだろう?」というのは、とてもたいせつな問いのかたちである。
もちろん「どうして嫌いなんだろう?」という問いもたいせつだけれど、私はこの二つは同じくらいの重みを持っていると思う。
しかし、世の批評家たちはどうも嫌悪や軽蔑を語ることをのみ専一的に「批評的態度」だと思っている節がある。
「ふん」と鼻でせせら笑って「なもん、文学じゃねーよ」と言い捨てると、それだけでなんだか知的なポジションが少しだけせり上がるというふうにお考えのようである。
私はこういう態度を若いときからたくさん見てきた。
いちばん最初は「不良高校生のみなさん」がそうであった。
彼らは「ふん」と鼻でせせらわらって、洋モクの煙を鼻から吹き出しながら、「なもん、反抗じゃねーよ」と言い捨てた。
あ、そうですか。
というので、私は高校を止めて中卒で働くことにした。
もちろん不良高校生のみなさんはきちんと高校に通い続けて、立派にご卒業遊ばして、一流大学に進学された。
次にお会いした「左翼学生のみなさん」がそうであった。
彼らは「ふん」と鼻でせせらわらって、ガリ版刷りで黒く汚れた手で前髪をかきあげながら「なもん、革命じゃねーよ」と言い捨てた。
あ、そうですか。
というので、私は卒業後ルンペンとなってプロレタリア的階級意識の形成に身を投じることを決意した。
もちろん左翼学生のみなさんの多くは、きちんと大学をご卒業遊ばして、一流企業に入社された。
さすがに私も二度騙されると、「こういう言葉遣いをするやつは信用できない」ということくらいは学習した。
それ以後、私は「ふん、なもん…」的批評性というものを信用しないようにしている。
不在のもの(例えば「真の文学」「純粋な革命」「完全な愛」など)の名において現実に存在するものを断罪していると、人々は批評的態度を通じて「自分が偉そうに見える」ことと、「その発言から派生する責任はとらずにすませること」のふたつを同時的に達成できることを知るようになる。
人間は弱いものだから、こういう「おいしい」やり方を一度覚えてしまうと、なかなかその嗜癖から抜け出すことができない。
「ほめ批評」はこの「過激な批評」のドミナンスに対する私からのささやかな異議申し立てである。
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