鼻骨がグルーヴする

2005-02-22 mardi

讀賣新聞のエッセイ800字をさらさら書いて送信。
つづいて、明日が締め切りの『文學界』「私家版・ユダヤ文化論」をさくさくと書き進める。
これは04年度後期の授業で講義したものなので、講義ノートがある。
それを適当なところで区切って「はい、一月分」とパッケージして『文學界』編集部に送信するのである。
完結すると文春新書になる予定。
講義でお給料を頂き、月刊誌連載で原稿料を頂き、新書で印税を頂くという「一つネタで三回稼ぐ」たいへんに収奪率の高い仕事である。
考えてみれば『寝ながら学べる構造主義』も、『映画の構造分析』も、もとは講義ノートだった。
今年NTT出版から出る『街場のアメリカ論』も大学院の演習を録音したものである(私は院生聴講生諸君が調べてくれてきたネタに半畳を入れるだけ)。
対談本も多いが、これはたいていご馳走付きであり、口のいやしいウチダは「美味しいもん出しますから…」と言われると、ふらふらとでかけてしまう。
池上先生との対談の場合などは、それに加えて「温泉付き」だったし。
なるほど。
私が「書き下ろしの本を」という編集者の懇望に対してあまりフレンドリーな対応をしないできたのは、おそらく「同一ネタからの収奪率が低い」からだったのだ。
なんという「せこい人間」であろう。
百歩譲って(五歩くらいかな)、ご指摘を甘受するとしても、限られた時間とリソースを最大限に駆使しないと生きてはいけないタイトな人生を私が過ごしているというのもまた譲れぬ事実なのである。

増田聡くんから『音楽未来形』(洋泉社)が送られてくる。
谷口文和さんという増田くんよりさらにお若い音楽学者との共著(というかユニット著)である。
帯に曰く。
「いままでの『音楽』の常識はもう通用しない! iPod, CCCD, MP3, サンプリング…激変する音楽をめぐるテクノロジー環境は、音楽を、リスナーを、ビジネスを、著作権をどう変えるのか?」
お値段1900円プラス税。
編集は洋泉社の渡邊秀樹さん。
渡邊さんは私の『子供は判ってくれない』、平川くんの『反戦略的ビジネスのすすめ』、町山智浩さんの『底抜け合衆国』の担当編集者でもある。
町山・平川・増田・ウチダというラインを見ると、渡邊さんというひとの「好み」がわかる。
私は古手のロックファンであり、1982年頃を最後に新しい音楽にキャッチアップすることを止めてしまったために、ここで増田くんが論じているような音楽環境をめぐる諸問題について論じる資格はまったくない。
私は iPod も持ってないし、CCCDを買ったこともないし、サンプリングやMP3については、それが何を意味するのかさえ知らない「太古の人」である。
ちなみに私が昨日一日の間に聴いた音楽は「巻絹」の謡、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズ、ボビー・ライデル、ボビー・ヴィー、コニー・スティーヴンス、ジーン・ピットニー、スティーヴ・ローレンス、仕上げは志ん生の「芝浜」である。
ほとんど「音楽過去完了形」である。
しかし、音楽がこれからどうなってしまうのか、私とてまったく興味がないわけではない。
私が予測している音楽の未来は

(1)音楽ビジネスの衰微
(2)ロックミュージックの衰微

である。

(1)についてはご異論のある方はいないだろう。
どうして(2)かということについて、若干ご説明が要るだろう。
私が感じるのは、リスナーの「聴取能力」のあきらかな低下である。
ここで「聴取能力」というのは、音感がどうであるとか「ノリ」がどうであるかとか音楽史的知識がどうであるかということとは関係がない。
音楽の発する「グルーヴ」に対する感応能力である。
「グルーヴ」というのは、身体的なものであり、一言で言えば「波動同期性」ということである。
プレイヤーは波動を発信し、リスナーは波動を感知する。
その波動の波形の種類、帯域の広さ、共振する身体部位によって、グルーヴは変る。
「頸椎に来るロック」と「仙骨に響くロック」ではグルーヴが違う。
ところが現在のリスナーのみなさんは「デジタル音源の楽曲をヘッドセットで聴取する」というメカニカルな聴取態度に幼児期からなじんでおられるために、グルーヴ感知器官の下位分節というような身体的レベルでの訓練が十分とは思われないのである。
しかし、音楽というのは想像されている以上に身体的なものなのである。
私が愛して止まないシンガーたちは、ジョン・レノン、ニール・ヤング、ジェームス・テイラー、J・D・サウザー、ブライアン・ウィルソン、大瀧詠一、山下達郎…
彼らの特徴は全員が「鼻声」ということである。
「鼻声」というのは、声帯よりもむしろ鼻骨や頭骨の震動が出す「倍音」で勝負するタイプのシンガーだということである。
私は彼らの音楽を聴くときに、私自身の骨がそれに共振する事態を「ロック」として経験してきたのである。
この身体の一部が共振する感覚は、デジタル音源では感知するのがむずかしい。
だから「ロックはラジオで聴くものだ」という大瀧詠一+ムッシュかまやつのご指摘は正しいのである。
みなさんも「ラーメンを啜っているときに、薄汚い食堂のラジオから漏れ聞こえてきた歌謡曲の一節にいきなり涙がとまらなくなった…」というような経験はおありだろうと思う。
しかし、「iPod からヘッドセットを通じて聞こえてくるラップの一節を聴いているうちにいきなり涙が止まらなくなった」というようなことはあまり起こらないのではないかと推察する。
これは別に楽曲の音楽性やみなさんの感性とは関係ない。
端的に身体に届く波動の違いによるものだと私は考えている。
歌謡曲が選択している音域や波形と、ラップの音域や波形は、あきらかに共振対応する身体部位が違うし、加えてアナログかデジタルかでも身体的共振への干渉は違ってくる。
というようなことを研究している音楽学者がいるといいんだけど…増田くんはこんな暇なネタは研究してないよね。
『音楽未来形』を読み終えたらそのときにまた感想を書きます。
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