正謡会の夜

2005-02-21 lundi

2月20日は下川正謡会練習会。
5月29日の大会の予行演習を兼ねての新年会である。
私は舞囃子『巻絹』、素謡『熊野』(「ゆや」と読んでね)のワキツレ。あとは仕舞『杜若』、『西行桜』、『景清』,舞囃子『頼政』、『砧』、素謡『定家』、『正尊』の地謡。午後はほぼ全時間出ずっぱり。
能楽『船弁慶』は「不眠日記」のオガワくんが9度の熱を出してダウンのため、本日は割愛。
あれだけ稽古した、肝心の日に発熱とはまことに気の毒なことである。
下川社中にはウッキー、飯田先生、ドクター佐藤に続いて大西さんも入門されたので神戸女学院合気道会メンバーが私を含めて5名。
大西さん、ドクターは初謡『鶴亀』。ウッキーは仕舞『吉野天人』、飯田先生は『猩々』。
ふたりが「エヴァリー・シスターズ」的にハモった『小袖曽我』もなかなか秀逸なできであった。
このまま合気道関係メンバーが増えて行くと、「シングルベル」で素謡や仕舞が見られる日もくる遠くない。
打ち上げの後、まだ七時前なので、わが家にドクター、飯田先生、ウッキーが立ち寄って、大丸で買い入れたワインとチーズで「打ち上げの二次会」。
ぜんぜん能楽の話にはならず、大学における赤腹問題、急く腹問題などについて、シビアな情報交換が行われる。
こういう事件は当事者間に双方向的な対話の回路が確保されていれば起こりえないことである。
私たちの日常的なコミュニケーションはほとんど無限の誤解の可能性に満たされている。
誤解している人が多いが、コミュニケーション能力とは、そのつど政治的に最適な言葉を正しい統辞法に従って語る能力ではない(そのような能力を備えた人はほとんどの場合「私はそのつど政治的に最適な言葉を正しい統辞法に従って語る能力のある人である」という以上の内容のメッセージを発信していない)。
そうではなくて、コミュニケーション能力とは、「よく意味のわからないメッセージ」を前後の文脈から、相手の表情から、音調やピッチから、みぶりや体感から推量する能力のことである。
言い換えれば、「コミュニケーションにおける誤解の幅を許容範囲内にとどめておける能力」のことである。
「言った言わない」とか「そんなつもりじゃなかった」とかいう種類の話が行き交うというのは、当事者間で「誤解の幅」についての適正な相互了解が成り立っていないことの結果である。
「誤解の幅」についての相互了解が整っていれば、極端な話、相手の話が聴こえなくても、コミュニケーションには何の支障もないのである。
赤腹問題、急く腹問題ある種の「コミュニケーションの病」と考えるべきだろう。
それが頻発するようになったというのは、別に社会組織がいきなり邪悪なものになったということではなく、社会人のコミュニケーション能力が低下しつつあることの症候なのだと私は思う。
だから、「自分の身に何が起こり、自分はいまどういう状況の中に置かれているのか」をまわりの人たちに、短くわかりやすいことばで説明できる人は、こういう問題にめったなことでは巻き込まれないのである。
さまざまな話をしているうちにワインが4本空いて、さすがに四人とも朝からの緊張が解けて、「へべのれけ」状態になり、11時に解散。
みなさんお疲れさまでした。
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