四月になればウチダは

2005-02-18 vendredi

三日に一件くらいの割合でいろいろなところから原稿依頼が来る。
一つ一つは3枚とか5枚とか、どうということとない字数だし、断り切れない筋からの依頼(ヤマモト画伯からとか)であったり、「それ書きたい」というような主題にかかわることなので、「あ、いいすよ」っと気楽に引き受けてしまう。
でも、たまると結構な量になる。
忘れないように締め切りをダイヤリーに書き込んでいるが、眺めてみたら、今週は締め切りが二本、来週は締め切りが三本、さ来週は四本あることが判明した。

今週は「讀賣新聞」のエッセイ800字と『名越本』の「まえがき」2000字。
来週は「讀賣新聞」800字と『文學界』「私家版ユダヤ文化論」五月号原稿20枚と『AERA』の「デトックスダイエット」論2000字。
さ来週は「讀賣」800字、『ユリイカ』ブログ論10枚くらい、筑摩の『反ユダヤ主義の歴史』書評600字、小田嶋隆『人はなぜ学歴にこだわるのか』文庫本「解説」10枚。

「デトックスダイエット」のような「なもん、あんたが書くことないじゃないの」というようなものも散見されるが、それはそれで依頼者への義理筋というものがあったりするのである。
「讀賣」のエッセイは、この時期に全国紙に「神戸女学院大学」という名前を毎週出してもらうというのは後期入試を控えた時点でのパブリシティ効果を見越したものである。当然その内容もまたそれとなく「神戸女学院大学って、いい大学ですよ」という言外のメッセージが伏流するものとなっている。こういったグラスルーツの営業努力がマーケットに及ぼす心理的効果というものは存外侮ることのできぬものなのである。
「ブログ論」なんかなんで門外漢のウチダに書かせるのだとお怒り方は全国津々浦々に多々おられるだろうが、『ユリイカ』編集部の編集方針は私のあずかり知らぬことである。
あるいは、「はっぴいえんど」特集に寄稿した「大瀧詠一論」が編集部内の「ナイアガラー」の琴線に触れたのかもしれない(「ナイアガラー」は日本音楽界における「クルド族」のように長い不遇と弾圧の時代を生きてきたので、同胞意識が強固なのである)。
それより何より、今週のハイライトは、光文社から小田嶋隆先生のご著書の文庫化にあたって「解説」のご指名を受けたことである。
オダジマ先生は私の若年の頃からの「アイドル」であり、私が「現代日本最良の批評的知性」と敬慕している方である。
『シティロード』に先生が書かれていた短いエッセイがたいへん気に入って、当時光文社文庫で出ていた『我が心はICにあらず』を購入。一読、オダジマ先生の崇拝者となり、以後十数年にわたり(『親子で遊ぶパソピア7』を除く)先生の全著作およびホームページ日記を眼光紙背に徹するまで読み続けてきたのである。
私の文体および思想にオダジマ先生が与えた影響は、他のどの作家・思想家のものよりも強く深いと言わねばならないであろう。
その影響とはいかなるものかについてはこれから「解説」にがしがし書き込んでゆくのである。
というような理由によって、せっかく春休みとなったのだから、少しはごろごろしたり、部屋の掃除をしたり、映画を見に行ったり、ベーエムを駆ってドライブにでも行きたいなあと思っているのであるが、何一つ果たすことができず、相変わらず終日パソコンのディスプレイの前でキーボードを叩き続けているのである。
こんな生活が三月末まで続く。
そして、年度替わりとともにすべてが終わり、私は管理職サラリーマンとして「オフィス・教室・道場・自宅」を循環するだけのシンプルライフの人となるのである。
--------