「原因」という物語

2005-02-17 jeudi

教職員殺傷事件後の緊急の保護者集会で市教委や学校からは事件を防げなかったことへの謝罪はなく、保護者らは終了後、怒りと不信感をぶつけた。
市教委が示した、校門の施錠徹底、心のカウンセリング、家庭訪問などの対策に対して、集会後、ある父親は「ありきたりなものばかり」と吐き捨てた。別の父親は「学校も教育委員会も一言も謝罪しない。悪いのは犯人だが、管理責任だってある。腹が立つ」と話した。(2月15日配信の共同通信より)
「うなとろ日記」の鈴木先生がこの記事に対して公立中学校教員としての現場の声を書き留めている。
私は深い共感をもって鈴木先生の一文を読んだ。

この「別の父親」は、何を謝罪してほしいのだろう。「学校の管理責任」か? 「今回は、不幸中の幸いというべきか、児童には傷害が及びませんでしたが、かような不審者が校内に侵入したことが、そもそも学校の管理不行き届きと言わざるを得ません。保護者の皆様にはたいへんなご心配をおかけしたことを、まずもって心からお詫び申し上げます」とでも釈明すれば溜飲が下がったのだろうか。
どんなマニュアルを作成しようとも、「100%のセキュリティ」を保証することなど夢物語に等しい。(…) いくらマニュアルを作成しようが、それは事件の未然防止にはつながらず、事件の後追いにしかならないことが明らかであろう。
学校現場では地域や保護者に「開かれた学校」となるよう求められている。「学校を開きつつ、不審者の侵入を防ぐ」のは、いかにも「学校のセキュリティというアポリア」なのである。
「別の父親」さん、あなたが言っていることは、今回の犯人が供述していることと通底しているということに気づいてほしい。

伏流しているのは、常に他罰的に思考する「被害者意識」である。
鈴木先生のコメントはできれば全文を徴して頂きたい。
私が気になるのは、この「管理責任」の追求をする父親の発言を選択的に報道しているメディアの姿勢である。
共同通信の記者は何を考えて、この父親たちの発言を報道したのだろう。
それが事実だから?
ほかにもいろいろな考え方をもった保護者たちがいたはずである。
それなのにどうして「他罰的」な枠組みで問題を解釈する人間の発言のみを選択的に報道したのだろう?
おそらく記事を書いた記者はこのような発言には「先生には気の毒なことをしました」というような感想を語る保護者の発言よりも、「社会性・批評性がある」と考えたのだろう。
だが、私はこの記者の判断に与することができない。
批評性というのは「悪いのは誰だ?」という問いの形式で思考する習慣のことではない。
こんなことを何度も繰り返し書かなければならないのは「面倒くさい」を通り越して、もはや「恥ずかしい」に近いのだが、このことが「世間の常識」に登録されるまで、私は執拗に同じことを言い続けるつもりである。
もう一度繰り返す。
批評性というのは「悪いのは誰だ?」という問いの形式で思考する習慣のことではない。
批評性というのは、どのような臆断によって、どのような歴史的条件によって、どのような無意識的欲望によって、私の認識や判断は限定づけられているのかを優先的に問う知性の姿勢のことである。
「悪いのは誰だ?」という問いが優先的に配慮されるべき局面はもちろん多々ある。
例えば、殺人事件の現場で包丁を振り回して、「みんな殺してやる」と叫んでいる容疑者の逮捕を手控えて、「私の捜査活動に伏流し、私の犯罪観そのものを無意識的に規定しているかもしれないイデオロギー的なバイアスを吟味したいので、ちょっと家に帰ります」というような刑事はおそらく長くその職場にとどまることができないであろう。
しかし、「悪いのは誰だ?」という問いが有効な場面は、人々が信じているよりもはるかに少ない。
というのは、そのような問いが有効なのは、「線形方程式」で記述できる状況、つまり入力に対して出力が相関する「単純系」においてだけだからである。
現実には、人間の世界のほとんどの場面は、わずかな入力の変化が劇的な出力変化をもたらす「複雑系」である。
出力(=結果)が劇的なカタストロフであることは、結果と同規模の劇的な入力(=原因)があったことを意味しない。
「蟻の一穴から堤防が崩れる」
これはプリゴジーヌのいう「バタフライ効果」と同じ意味のことである。
私たちは「原因と結果」ということを簡単に口にするけれど、「原因」ということばは「とりあえず原因が分からない場合」にしか使われない。
このことに気づいている人は少ない。
ゆきずりの見知らぬ人にいきなりぽかりと殴られたときに「どうして殴るんだ?」という問いを立てる人はいるけれど「どうして痛いんだ?」と問う人はいない。
原因がわかっていることは誰も問わないからである。
私が「どうして?」と訊くのは、「原因がわからないこと」、あるいは「はい、これが原因ですよ」と答えを与えられてもたぶん心から納得するということがないことについてだけである。
1917年にロシア革命でロマノフ王朝が倒壊したとき、人々は巨大な帝国があっという間に崩壊したことに一驚を喫した。
そして、「原因=結果」の線形方程式で歴史過程を考想する人々はこう考えた。
「世界的な規模の帝国の倒壊という劇的な結果は、世界的な規模の帝国を倒壊させる力をもった〈何か〉がによってしかもたらされない」
もちろん、そんなものはあたりを見回してもどこにも存在しない。
苦しい推論の結果、彼らは次のような結論に導かれた。
「ロシア帝国以上の政治的力量と財力と官僚組織と軍隊を備えた〈見えない帝国〉が存在するという仮説以外にこの事態を説明できるものはない」
人々はそうやって『シオンのプロトコル』の誇大妄想狂的な世界像を信じ、やがてそれは600万ユダヤ人の〈ホロコースト〉に帰結することになった。
すべての結果には単一の原因があるという考え方をする人間は、そうすることで知的負荷を軽減することができる。
だが、この怠惰を「頭が悪い」と笑って済ませる気に私はなれない。
「頭の悪い人間」のもたらす災厄を過小評価してはいけない。
私たちの社会で起きるさまざまな事件のほとんどすべては複数のファクターの総合的な効果であり、「単一の原因」に還元できるような出来事はまず存在しない。
しかし、「蟻の一穴から堤防が崩壊する」ということは、逆に言えば、堤防が決壊する前に「蟻の一穴」を塞いでおけば何も起こらなかったかもしれないということである。
人々は、堤防が決壊し、村が全滅した後になってから「龍神さまの祟りじゃ。若い娘を生け贄に捧げるだよ」とか「与作の野郎が夜中に堤防を掘り崩したのをおらあ見ただ。みんなで与作をうっころすべ」といったスペクタキュラーな「原因」究明作業に励む。
この種の「原因究明」の非日常性がもたらす興奮に比べると、「堤防の蟻の穴探し」はやや派手さに欠けるきらいがあるから、やりたがる人はあまりいない。
しかし、私はこのような「ささやかだけれど大事なこと」をていねいにやってゆくことでしか世の中はよくならないと信じている。
他者の責任を追求する言葉を「吐き捨て」たり、「腹が立つ」人間だけがいても、世の中は少しも住みやすくならない。
そのことについては、経験的に私には確信がある。
メディアに携わる人々はもう少しそういうことにもご配慮頂いて、「他罰的な語法で語られる原因究明の言説」の批評性について、一度ゆっくり考えて頂きたいと思う。
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