危機管理の陥穽

2005-02-15 mardi

大阪府寝屋川の小学校で、刃物を持った若い男が学校に侵入して教職員三人を殺傷するという事件が起きた。犯人は17歳の卒業生で、「中学から不登校」だったと報じられている。
朝日新聞の社説は学校の危機管理(要するに不審者を「門前払い」する体制)の充実の急務であることについてのみコメントしていた。
しかし、私はこれが「防犯システムの設置や警備員の配置など効果がありそうな対策」を講じることで片づく問題だとは思わない。
たしかに学校の建物への出入りの管理を強化すれば学校「敷地内」での事件発生は食い止められるだろう。
敷地内で事件が起こらなければ、それは学校の責任でも教育委員会の責任でも文部科学省の責任でもない。それはただの「路上での通り魔」の事件であり、「私どもの責任です」とカメラの放列の前で頭を下げる公的立場の人間を出さずに済む。
「学校の危機管理体制が不十分だったから事件が起きた」という言い方は正確を欠くのではないかと私は思っている。正確には、「学校の危機管理体制が不十分だったから学校敷地内で事件が起きた」のである。
それは言い換えれば、「学校の危機管理体制が十分だった場合は、学校敷地外で事件が起きただろう」ということである。
たしかに、「やるならよそでやってくれ」というのはシニックだが現実的な考え方である。
私は外国の事例はあまり知らないが、フランス人はそういう考え方にあまり抵抗がないように思われる。
私はかつてフランス人相手に「クラブ活動」という言葉の説明に窮したことがある。
「あなたは合気道をどこで教えているのか」という問いに対して、「クラブ活動で」と言おうとして、「部活」とか「クラブ活動」ってフランス語で何ていうんだっけ?と考え込んでしまったのである。
とりあえず「学校施設を利用した課外の諸活動」というような説明的な表現をしたのであるが、フランス人には「学校施設を授業以外の活動に使う」ということがぜんぜんご理解頂けなかった。
「学校で、授業のあとに、学校施設を使って、カリキュラム以外のことをやるの? そんなこと日本では許されているの?」と驚かれた。
そういわれてみると、フランス映画をこれまで何百本と見てきたけれど、放課後に校庭でサッカーをやったり給食室でお料理を作ったり理科室で化学実験をやったりしている子供たちを描いた場面というのを見た記憶がなかった。
「え? フランスって、クラブ活動ってないの?」と訊ねたら、そんなもの知らないよと怪訝な顔をされた。サッカーやりたい子供はどこかのサッカーのクラブにお金を払って入会して、コーチについて練習するもんだよ。
それにウチダくんは教師だろ? 教師を正規の労働時間後に無給で何時間も働かせるなんて、労働者の権利侵害じゃないか。
なるほど、そういう考え方もあるかもね。
私は合気道と杖道の課外指導に一週間三日8時間拘束されているが、これはもちろん労働時間にはカウントされていない。
たしかにフランス人にはきわめて理解しにくい事態かもしれない。
しかし、それ以上に驚いたのは、フランスでは小学校から大学まで、授業時間以外は教室も校舎も「施錠」するのが当たり前と教えられたことである。
学校は勉強するところだから、授業が終わったら教師も生徒もそこにいる理由がないというのである。第一、学校に放課後も好きに居残ってよいということになったら、生徒たちは教室でドラッグの取引したり、レイプしたり悪いことするに決まっているじゃないと笑っていた。
はあ、そういう考え方をするんだ。
なるほど。
そういえばマチュー・カソヴィッツの『暗殺者たち』という映画の中に、不良小学生が学校に入ろうとして教師に「お前は来るな」と追い出される場面があった。
お前がワルだということはもうどうしようもない。だから悪事を働くのを止めろとは言わない。でも学校でやるのはやめてくれ。オレの仕事場にトラブルを持ち込むな。
教師はそういうロジックで小学生を追い返す。
小学生は「あ、そう」と教師に背を向けて歩き出してから、振り返ってポケットから銃を取りだして教師を撃ち殺す。
銃撃は学校の門扉の前で行われたから、これが「学校敷地内」での事件として扱われるのか、「路上」での事件として扱われるのかは微妙なところだが、とりあえず、この教師は「学校敷地内では事件を起こさせない」ということには身体を張っていたように思われる。
日本でも何年か前から、学校における犯罪について「危機管理の強化」ということが声高に叫ばれ出した。
たぶん学校における凶悪犯罪の多発が報告されたときに、文部科学省の役人だか教育学者だかが、欧米から「危機管理」という考え方を「輸入」してきて、「危機管理を徹底すれば学校敷地内での犯罪を防げる」と考えたのであろう(だいたい「欧米では…だから、これに倣って」というのが本邦の識者たちの定型的な発想である)。
しかし、これは彼我の国情の違いを無視した浅知恵といわなければならない。
「危機管理」というのは身も蓋もない言い方をすれば、「やるならよそでやってくれ」ということである。
フランスやアメリカ(も映画を観る限り多分そうだろうと思う。ゾンビやシリアルキラーに追われて学校の扉を破って逃げ込んできた高校生がどの教室も施錠されていてピンチ!というのはよく見るシーンだから)における危機管理は、教室も校舎も原則的に施錠してあり、鍵は担当教師だけが持っており、授業以外の時間、授業以外の目的には決して使用してはならないという先方の「学校観」と込みで受け容れるのでなければ実効性はない。
それはまた、部活・クラブ活動・文化祭・運動会・バンドの練習・芝居の稽古などなど生徒たちが課外に学校施設を利用して行うすべての活動には教師の監督が必須であり、これは教師の正規の労働時間に算入されるということである(アメリカではスポーツ系のクラブ活動のコーチには専門のプロが雇用されているらしい)。
そのように条件を整えるなら「危機管理」はかなり効果的に実行できるだろう。
しかし、それは現状と比較して言えば「できるだけ学校から子供たちを遠ざける」ということである。
たしかに、そうすれば「ここ」で起きる事件は激減するだろう。
それを「学校における安全が確保された」と喜ぶ人もいるだろう。
「学校」の活動を限定し、空間を封鎖し、子どもたちがそこに滞在する時間を減らせば、間違いなく学校におけるトラブルはそれだけ減少する。
「学校は安全」になるかもしれない。
しかし、それはただ危険なファクターを「学校外」に押し出すだけのことであって、危険なファクターそのものは手つかずのまま残される。
たしかに学校に恨みを抱いた少年が教師を「職員室で刺殺する」可能性は減じるだろう。けれども、それは代わりに「校門を出たところで刺殺する」可能性を高めるだけのことのように私には思われるのである。
日本において「学校」は、江戸時代の「寺子屋」以来、教育機関であると同時に、遊び場であり、擬似的な家庭であり、癒しの場であり、アジールでもあった。
私はこの固有の学校観は日本社会にはかなり深く根づいていると考えているし、軽々に放棄してよいとも思わない。
むしろ、私たちがその伝統を放棄しつつあることが、このような事件の遠因にあるように私には思われるのである。
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