学士会館で目覚める。
食堂で朝食を食べて部屋にもどって二度寝。
チェックアウトしてから1Fのカフェでメールをチェックすると、IT秘書から「火事警報」メールが立て続けに四通届いている。
アクセス数を増やしたいという願い、「一人でも多くの人とつながりたい」という素朴なコミュニケーション拡大欲求を私はよく理解できる。
しかし、それが「金」とリンクするということになると、それはもう「素朴」と呼ぶことはできない。
このようなかたちで金を稼ぐのは、それがかりに百円、千円という程度の金額であっても、稼ぎ方としてフェアではない。
そして、社会生活を営むときにもっとも優先的に配慮しなければならないのは「フェアネス」だと私は思っている。
学士会館を出て、潮出版社に。
『潮』で『先生はえらい』の紹介記事を書いてくれるというので、その取材である。
『第三文明』といい『潮』といい『公明新聞』といい、創価学会系のメディアは私の著作紹介に比較的好意的である。
別に学会が組織的に好意的であるわけではなく、担当編集者が個人的に愛読者であるにすぎないのであるが、このまま学会が組織的にウチダ本の愛読者となってしまい、1000万学会員がまとめ買いをしてくださることになってしまうと、これに浄土真宗門徒1500万人と合わせ、本を出すたびに2500万部ということになる。
それでは森林資源の枯渇を招かぬであろうか・・・と取り越し苦労をしつつ取材を受ける。
『先生はえらい』の出版意図についてご説明をする。
つねづね申し上げているように、現在日本のメディアでなされている教育論はすべて「・・・が悪い」という告発形の文型で語られている。
たしかに文部科学省も教育委員会も日教組も教員も生徒も親も産業界も資本主義も父権制も、みんな今日の教育の荒廃には責任の一端がある。
だが、「一番悪いのは誰か」を科学的手続きによって論証したことで、問題は解決するという見通しに私は与しない。
私は推論の手続きが「正しい」ことよりも、その推論が「よりまし」な結果をもたらすことを評価する人間である。
だが、教育について語る識者の多くは「教育をどうやってよりましなものにするか」という問いに答えを出すことよりも、「教育がここまで悪くなった原因は何か」という問いに答えを出すことの方が緊急であるし、知的威信ともつながりが深いと考えているように見える。
その結果、教育論が語られる場面では、賛否両論が入り乱れているときでさえ、「もう、こうなったら、このまま落ちるところまで落ちればいいんだよ」というなんとなく「なげやり」な気分だけは参加する全員に共有されている。
たぶん、「落ちるところまで落ちた」ときにはじめて、どこがほんとうに悪かったのかが分かるからだろう。
瀕死の病人の病因について、意見が対立している医者たちが、「とりあえず早く死んでくれないかな。解剖しないと結論でないからさ」と病人の枕元で「死ね死ね」と念じているのに似ている。
たしかに、早く死ねば死ぬほど、死因の発見は早い。
けれども、瀕死の病人はまだ死んではいないのである。
死ぬまでのQOLについてもう少し配慮してもよろしいのではないか。あるいはもうすこしましな延命療法を探してもいいのではないか。回復の可能性をはなからゼロと決めてかかることもないのではないか。
どの場合にしても、「病人」に「生きる意欲」をもって頂かなければ話は始まらない。
「学校は楽しい。先生はえらい。生徒はかわいい」という不可能と思われる理想の境位をどこまでもめざすのを断念すべきではないと私は思う。
だが、そういう立場から語られている教育論は少ない。というか、ほとんど存在しないのである。
というようなことをお話しする。
潮出版社の前に、「新徴組屯所跡」という石碑があった。
清河八郎に組織された浪士隊が京都で新撰組と分派したあと、江戸に戻って、この飯田橋の地に屯所を置いた。その後戊辰戦争の後退戦を戦い、庄内藩鶴岡の地に住居を下賜されたが、維新後悲痛な末路をたどったと石碑には記してあった。
以前も書いたように私の四代前の父祖内田柳松は新徴組の一員であり、その墓は鶴岡にある。
140年前、高祖父もこの同じ場所に立ったことがあるのだろうかと想像する。
『潮』の取材のあとは、角川書店で春日武彦先生との対談。
角川は歩いて三分ほどのところである。
先週に続いて二度目の長時間対談。
前回は「30代女性の悩み相談」的な構成であったが、今回はもうこの二人に統制は不可能、話したいだけ話させとこ・・・的ななかば「あきらめ」ムードが漂っていたのをいちはやく察知した二人は、ここを先途と思いつくままにめちゃくちゃな話を展開する。
5時間話し続けて、最後に春日先生が「サナダムシがお尻の穴からでないなら、私もサナダムシダイエットをしてもいいのだが」と言ったところでテープが終わり、たいへん教訓的なひとことをもって対談が締めくくられた。
それにしても二週連続10時間におよぶ愉快痛快奇々怪々な座談であった。
私もぜひ早く活字化されたものを読んでみたい。
ぱたぱたと荷物を片づけて新幹線に飛び乗る。
土曜日の午後2時半から始まった「死のロード」がこうして終わる。
月曜は朝から修士論文の口頭試問。
I原さんの「公共ホール論」の副査とK田さんの「同性愛論」の主査を相務める。
公共ホール論では、行政と芸術活動のデリケートな関係、国家と市民の相互規定など私自身が興味がある論件についていろいろと質問をさせて頂く。
行政が芸術振興に積極的にコミットすべきであるということに反対する人はほとんどいない。
しかし、私は芸術活動というのは、できれば行政から自立している方がいいと考えている。
権力が芸術活動に介入してくることを恐れているからではない。
そうではなくて、芸術活動の側の人間で行政とのパイプ役をつとめる人間が構造的に「芸術界」における「プチ権力者」になるからである。
私は権力者には特に含むところはないが、どのような領域であれ「プチ権力者」を見ると鳥肌が立つ。
私が一番嫌いなのは、「反権力的な立場の人々」の業界における「プチ権力者」である。
だから私は能楽を行政が支援することにはあまり抵抗を感じずにいられるのである。
「同性愛論」についてはもう何度も書いたが、今セクシュアリティ論とかジェンダー論というようなものを書く人は、「既成の性言説の一層の緻密化・細分化」以外のオプションを選ぶことが構造的にむずかしくなっていると思う。
私は性的言説のこの異常な増殖とセクシュアリティの無限の細分化を「セクシュアリティのパーソナリティ化」の趨勢ととらえている。
つまり「ひとりにひとつのセクシュアリティ」あるいは「名刺代わりのセクシュアリティ」である。
ひとびとは争って「オレにもオレ専用の名刺作ってくれよ」と口を尖らせている。
もちろんオッケーだけれど、62億の人間が62億のそれぞれ差異化されたセクシュアリティを有することになると、そのときセクシュアリティは識別指標としては何の役にも立たなくなる。
名前かIDか納税者番号で識別には用が足りるからだ。
「名刺」があるときには「名刺代わり」のものは要らない。
私たちの時代は、セクシュアリティが「個人の識別指標」として限りなく「パーソナライズ」されてゆくプロセスをたどっている。
それはセクシュアリティやジェンダー・アイデンティティが社会的記号としてどんどん「無用化する」プロセスである。
性による個体識別の無用化に向かうこのプロセスはいったいどのような歴史的条件によってドライブされているのか?
と問いを立てている人はあまりいないようである。
少なくとも私は知らない。
でも、問いはややこしいが、答えは簡単。
資本主義である。
資本主義は生産主体の規格化と消費主体の規格化によって大量生産、大量流通、大量消費、大量廃棄プロセスを実現し、それによって環境が破壊されて人間が死滅するか、人間が性的再生産を止めて死滅するまで、そのプロセスを継続する「マシーン」である。
セクシュアリティのパーソナライゼーションとは、社会的識別指標としての性的差異の廃絶に他ならず、それは生産主体=消費主体の規格化のために資本主義が私たちに懇請している当のものなのである。
でも、私のこんな話に耳を傾けてくれる人はほとんどいない。
人々は嬉々として性的差異の個人化による社会的記号としての性差の解消に日々努めている。
そんな「オレのセクシュアリティにこだわり」なみなさんにウチダから贈る言葉。
Everybody's sexuality is nobody's sexuality.
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(2005-02-14 15:01)