東京でお仕事

2005-02-07 lundi

今週と来週は東京で仕事。
午前中は学士会館のカフェで『AERA』の石川さんの取材(というのかね、これを)。
石川さんは近々アメリカ取材旅行に行かれるそうで、渡米前に私が『街場のアメリカ論』でどのような変痴奇論を展開したのかを聞き出すべく訪れられたのである。
現地に赴いて私の仮説の当否を実地検証してくださるそうである。
私のアメリカ論はアメリカの現実にはほとんど関係ない(だって知らないから)。
私が興味があるのは「アメリカの現実」ではなくて「アメリカのファンタジー」である。
現実は現場にゆかないとわからない。
現場より遠目からの方が現実がよく見えるということはない。
しかし、ファンタジーは遠目からもわかる。しばしば遠目からの方がよくわかる。
私が去年のアメリカ論で主題化したのは、「アメリカ人とは何ものであるか」ということではなく、「アメリカ人は自分たちのことを何ものだと思っているのか」ということである。
これを知るためにはデータよりも想像力の方が必要だ。
たとえば、「英語話者である」ということのリアリティを私たちは想像力抜きには理解することができない。
想像してみて頂きたい。
世界中どこに言っても日本語が通じ、世界中どこの公共施設にも日本語の表示があり、日本語をしゃべれる人間がおり、日本語ができることがその人々にとっては社会的プレスティージであり、商談でも国際会議でもふだんどおり日本語でプレゼンすればそれでオッケー・・・・という言語的状況におかれた人間に自国文化の辺境性やローカリティについて内省する機会がどれほど頻繁に訪れるか。
私たち日本人はこういう(想像のおよばないような状況を)想像をしない限り英語話者の世界像にたどりつくことができない。
しかし、この「英語の覇権性」というような事実は、アメリカ事情に精通した人間やアメリカに長くいて英語が母国語同様に話せる人間にとっては「想像することを無意識的に回避したくなる」論件である。
というのはまさに英語が世界の標準語であるという事実から、そのアメリカ研究者自身が恩恵を蒙っているからである。
日本人アメリカ通の語るアメリカ論のピットフォールはこの点にある。
英米文学者であれ、アメリカ政治や経済の専門家であれ、アメリカの大学で学位をとってきた心理学者や自然科学者であれ、彼らは「アメリカが当面世界の覇権国家であり続け、文明の中心であり続ける」という事実から、そうでない場合よりも多くの利益を得ている。
であれば、その方たちの語るアメリカ論には「アメリカン・ドリーム・フォーエバー」という主観的バイアスが多少ともかかるのは避けがたい。
私はそれが悪いと申し上げているのではない。
人間とはそういうものであって、それを非難する権利のある人間はいない。
私はただ、そういうアメリカ論ばかりでなくてもよろしいのではないかと申し上げているのである。
私のアメリカ論は「アメリカは近くその世界的威信を失い、ゆっくり滅亡に向かうであろう」という予言とともにある。
予言というのは遂行的なものであるから、私自身はこの予言が「当たる」ことを願っている。
ということは、「アメリカがさらに生き延びる」オプションと「アメリカの衰退を促進しそうな」オプションの二つがあり、私にその選択権が委ねられて「どちらを選ぶ?」と訊かれたら、私は迷わず後者を選ぶということである。
そういう否定的なバイアスのかかった「歪んだ主観」からのアメリカ論がひとつくらいあってもいいだろうと私は思う。
はなから「私のアメリカ論は私の主観的バイアスのかかった妄想です」と宣言しているのであるから、それを事実として信じる読者がおられるはずもない。
「お前の議論には現実的基礎づけがない」とか「データがない」とか「学問的根拠がない」という批判も当然予想されるのであるが、こちらははじめから「そういうものは、ないんですってば」と申し上げているのであるから、かかる批判は日本語読解能力がない方からのものとみなして、軽くスルーさせていただくのである。
果たして石川記者のアメリカ探訪は私のアメリカン・ファンタジー論を裏付けることになるのか、それとも「ウチダさんのいうことまるっとデタラメじゃないですか!(怒)」ということになるのか、帰国後のお話を伺うのが楽しみである。

昼からは精神科医の春日武彦先生との対談のために飯田橋の角川書店に行く。
名越先生もそうだけれど、精神科医の方との対談は気楽である。
どうしてかというと、精神科医というのは職業的に、決してこちらの話を遮ったり、反論を向けたりされないからである。
どんなむちゃくちゃなことを言っても、にっこり笑ってうなずいてくれる。
もちろん先方は私の暴言暴論にうんざりされることもままあるのであろうが、そのようなうんざり感をスルーする技術にもまた熟達されているはずなのであるから、こちらはどんどん「患者」状態になることができる。
今回の対談テーマは角川書店の女性編集者たちのリクエストで、「30代女性の生き方」についてというものである。
50代のおじさんたちにそんなこと訊いてどうするんだろうと思うけれど、訊きたいと先方がおっしゃるのであれば致し方ない。
たたみかけるように連打される質問にふたりでどんどんお答えする。
私と春日先生の基本的な考え方はかなり似ていて、「ま、なるようにしか、ならんわな」という未来の未知性への敬意あふれる態度と「強く念じたことはそうでない場合よりも実現する可能性が高い」という能動的・主体的な構えの不気味なアマルガムである。
そんなことを言われても少しも生き方のガイドラインにはならないのであるが、私たちの主張は「生き方にガイドラインはない」というものなので、こればかりは仕方がないのである。
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