構造と自己組織化

2005-02-06 dimanche

芦屋で合気道のお稽古。
正面打ちからの展開。
このあいだ守さんがいらしたときにうかがった「構造」ということばがずっと頭に残っている。
合気道も意拳も「ファーストコンタクト」の瞬間に勝負が決まるという点では同じはずである。
ただ合気道は接触したあと、相手との接触がかなり長い時間継続する(投げが決まって空間的に乖離したあとも、「一体化」は持続している)。
この相手との「一体化」(それを多田先生は「対峙しない」「とらわれない」「敵を作らない」「嫌わない」という言い方で表現されている)の原理を「構造」ということばで捉え返すと非常に見通しがよくなるような気がしてきたのである。
意拳の站椿はおのれの身体の「最強の構造」を内観によって覚知するための稽古法である(たぶん、そうだと思う。違っていたらご指摘くださいね、守さん)。
その「構造」に外的なファクターが加わった場合、「構造」は新たなファクターを取り込んで、最もバランスのよい、生き生きとした構造へと「自己組織化」するはずである。
だとすると、合気道に限らず、すべての武術の形稽古というのは、この単独で存立する「構造」が未知のファクターや負荷(つまり相手からの加撃や妨害)が加わったことで、いったん解離し、その新たなファクターを組み込んだかたちで自己組織化し、「構造」をヴァージョン・アップする無窮のプロセス、というふうに理解することができるのではないか。
そう考えたのである。
となると、このような稽古のねらいは「不壊の構造」を維持することではなく、むしろ「未知なるファクター」を迎え入れたときに、瞬間的に「それを含んだ新しい構造」を再構築する「柔軟性」と「開放性」の感覚をとぎすますことにあるのではないか。
手と手が触れあう一瞬のうちに、「私を攻撃してくる相手」をも含んでなめらかに運動するバランスのよい構造を望見し、それを成就するためにもっとも効率的な動線を選んでただしく動く。
そのような絶えざる自己解体=自己再構築の運動性をたかめることが形稽古のねらいではないのか。
「負けない」とか「崩されない」とかいうタームで身体運用をしている限り、負荷がある閾値を超えたところで術は崩壊する。
しかし、「相手の攻撃をも含んだかたちでの構造の自己組織化」というダイナミックなスキームで構想するならば、喩えて言えば、小企業が短期的に効率的な資金運用によっておのれに数倍する巨大な企業を買収することができるように、相手の大小や彼我の強弱とは関係のない次元で「自己組織化」は果たしうるはずである。
そんなことを思いついた。
ただし、この比喩は誤解を招きそうなので、補足しておくけれど、「小能く大を倒す」という術が成就するためには、当の「私」自身を単体で存在する個物と考えてはならない。そうではなくて、私自身が私と相手をともに含む巨大な「構造」の一部分であるという「ネットワーク感覚」が欠かせないように思われる。
「私」が天然の理法を「知っている」とかそれを「統御している」というのではなく、「私」の中に天然の理法・構造法則が活発に活動しており、「私」はそのひとつの表出にすぎない。
多田先生は武人の心得として「用のないところにはゆかない」ということをよくおっしゃっている。
私が震災のあとの復旧作業の経験で学んだことの一つは「誰かが手助けを必要としているとき、まるではかったようにそこに登場する身体感覚のすぐれた人間」が存在するということであった。
「用のないところにゆかない人間」と「誰かが自分を必要としているときにそれを察知できる人間=用のあるところに選択的にいる人間」はおそらく同一の人である。
この感覚を私は上で「ネットワーク感覚」と呼んだのである。
この感覚を身体運用レベルで言うと、ある身体部位が「どこに用があって、どこに用がないのか」を瞬時に察知する能力ということになる。この能力が「構造」の安定性を担保している。
同じ話を何度も繰り返して恐縮だが、意拳の光岡英稔師範がハワイで組み手をしているときに、スパーリング・パートナーの前歯の一本にまるで「リールが釣り糸を巻き取るように」一本拳が入ったことがあった。その前歯は虫歯でその日の朝からぐらぐらしていてそうである。
もちろん光岡先生は相手の口腔の状態なんかぜんぜん知らなかった。
拳が虫歯に吸い寄せられるように動いたのである。
相手の「最弱」のポイントに拳が動くという感覚は、「手助けを必要として困っている人がいるところに、気がつかないうちに立ち会っている」感覚と実は同質のものである。
発勁はつよく発すれば武器となるが、やわらかく発すれば治療技術となる。
いずれの場合も、「相手の身体の最弱のポイントを直感的に探り当てる」という感覚に変わりはない。
「最弱」という言い方も語弊がありそうだが、これまでの記述に則して言い換えると「構造の自己組織化が始まる起点」というふうに言うこともできるだろう。
「レバレッジ」と言ってもいい。
そこを探り当てる。
そのために必要なのは筋肉の強化でも心肺機能の向上でもない。
いま自分が何を求めているのか、誰がどこで私を呼び求めているのか、それを聴き取る力である。
その力にもし近似的な表現を与えるとすれば、私は「愛する力」ということばではないかと思う。
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