パリ症候群

2005-02-02 mercredi

朝日新聞の朝刊に興味深い記事が載っていた。
「在留日本人のパリ症候群」という記事である。
パリ在住の日本人の中に鬱病を発するものが多く(毎年百人程度)、中にはかなり重篤なものも含まれる。これを現地に在住のドクター太田という方が「パリ症候群」(syndrôme de Paris) と命名した。
朝日の記事によると「診察者の73%は女性で、20代、30代が突出する。バブル経済期には、仕送りは多いが、学習意欲が低い女性が大挙留学し、言葉の壁に跳ね返される例が相次いだ。いま危ないのは転職志望の女性たちだ。仏語を身につけ、服飾や旅行、メディア関係の『パリらしい』仕事をしたい。そんな夢想を抱いた人たちがこの街に来て打ちひしがれる。」
典型的な症候は、将来への見通し不安とことばによるコミュニケーション失調。それから対人恐怖、外出恐怖、「自分をバカにしている声が聞こえる」ようになり、妄想を発して強制入院、自殺未遂に至るケースもある。
原因についてドクター太田はこう語っている。
「日本のサービスの質は官民ともに世界最高だが、フランスは残念ながらその対極に近い。日本基準のままだと不快な体験を重ねることになる。きちんとした日本人はこの国のいい加減さではなく、それについていけない自分を責めてしまう。」
朝日新聞によると、『リベラシオン』の12月の記事がきっかけで取材をしたそうであるので、さっそく当の『リベラシオン』の記事を読んでみる(インターネットって、ほんとに便利だなあ)
フランス人は「パリ症候群」をどうとらえ、その原因をどう解析しているか興味がわいたのである。(まさか「フランスのサービスは世界最低水準なので、日本人は不愉快な経験を重ねてしまう」という説明はしてないよね)
どれどれ。
ふむふむ。
では04年12月13日の『リベラシオン』の記事をご紹介しよう。
症状の現状報告はだいたい朝日の記事と同じだが、分析にはだいぶ温度差がある。

「症状は渡仏して三月目くらいから始まる。日常生活の些細な不調がきっかけで軽い鬱状態になり、それが不安、外出恐怖、交通機関への恐怖症と症状は進行し、25%が帰国する前に入院加療を必要とする状態にまで悪化する。ドクター太田によると、『症状は異文化との違和感でフランスに適応できない人に発症する』。
Association Jeune Japon のベルナール・ドゥラージュは家父長的な日本社会の厳格さを原因に挙げる。『患者のほとんどは甘やかされ、過保護で育てられたええとこのお嬢さんたちだ。西欧的な自由に免疫がないので、頭が変になってしまうんだね。』
日仏協会のマリオ・ルヌーがこれにこう付け加える。『社会関係がぜんぜん違う。日本的な集団主義は西欧的な個人主義と相容れない。日本人は自分たちの集団から離れるとまるで無防備になったような気になるんだ。』
われわれの社会は日出るところの国の居留民を変調させてしまうのであろうか?
ドクター太田はことばの問題とコミュニケーションの問題を指摘する。『日本人は臆病だから、フランス人のいらだちに恐怖を感じる。ぺらぺらしゃべるのは日本では不作法なことだ。日本人は何も言わないでも内心を察知してもらえるから。フランス人のユーモアもきまじめな日本人にとっては攻撃的なものと感じられる。』(中略)
マリオ・ルヌーの仕上げの説明によれば、これらの心理的トラブルは夢と現実の乖離を前にした日本人の幻滅に起因する。
『雑誌が日本人の幻想を育てているんだよ。あんなものばかり読んでいると、パリではそこらじゅうにマヌカンがいて、女性はみんなヴィトンでまとめていると思うんだろうね。』
残念ながら現実はそれとはほど遠い。街にはヴァン・ゴッホもいないし、そこらじゅうにトップモデルがぞろぞろ歩いているわけでもない。別にだからといって病気になることはないじゃないか。」

というものであった。
同一の論件について日仏二つのメディアを徴すると、その「ずれ」や温度差から出来事の意味がよくわかる。
『リベラシオン』の論調は精神的に失調している日本人にたいしてあまりフレンドリーであるようには思われなかった(きっとこれがドクター太田の言うところの「ちょっと攻撃的なフランス的ユーモア」というものなのであろう)。
たしかにバブル期のパリでヴィトンやエルメスの店に観光バスで乗り付け店の品物をあらかたさらっていった日本人のレディーたちに対していまなおフランスのみなさんがあまり親近感を抱くことが出来ないでいるというのもわからないではない。
しかし、それにしても「病気になるのはお前が弱いからだ」ときっぱり決めつけるあたり、ほんとに「フランス的個人主義」の面目躍如である。
こういう風土の中で暮らせる日本人はたしかにそれほど多くはないだろうと私は思う。
現在の若い日本人のほとんどは自分の不幸や失敗を「他の人のせい」にする他罰的説明に依存している。「社会が悪い」「親が悪い」「学校が悪い」「メディアが悪い」などなど。
「私が不幸なのは私のせいではない(「父」のせいだ)」という発想そのものを「家父長制」と呼ぶのである(その点ではわが国の作物は、マルクス主義もフェミニズムもポストモダニスムもすべては「日本的家父長制」の消しがたい刻印を負っている)。
これはフランス的個人主義の採用する説明原理ともっともなじまない発想法である。
かの国では、すべての不幸や失敗を(それがかなりの程度まで制度や他人の責任である場合でも)自分の責任として引き受けることを市民に要求するからである。
日本的家父長制の発想になじんだ人々がフランスで精神的に参ってしまうのはある意味当然である。
特に20代30代の若い女性が発症するというのは、彼女たちの社会集団が「他罰的」な構文で自身を語る習慣をもっとも深く内面化していることと関係があると私には思えるのである。
しかし、考えてみると私もパリ滞在中はだいたいホテルの部屋から一歩も出ないでパソコンに向かって仕事をし、ベッドに寝ころんで成島柳北や夏目漱石や白川静を読み、ごはんは「ひぐま」の味噌ラーメンである。
ドクター太田によれば、これは「パリ症候群」の初期症状にほかならない。
でも、日本にいるときも、私は一日部屋から出ないでパソコンに向かって仕事をして、同じような時代錯誤的な本を読み、昼ごはんにはうどんかラーメンかカレーを部屋でもそもそ食べている。
これをして「芦屋症候群」と言ってよいのであれば、私は世界中どこにいっても土地にかかわりなく同一の精神の病を患っていることになる。
おそらくかのドクター名越はこれをして「狂い過ぎている人は発症しないんです」と診断されたのであろう。
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