ヨイショ批評宣言

2005-01-31 lundi

入試最終日だが私は監督にも採点にも当たらなかったので、大手を振ってお休みである。
まず山本画伯から頼まれた作品写真集の跋文を書く。
さらさら。
山本画伯がいかに偉大な芸術家であるかをほめたたえればよろしいのであるから、これは簡単。
私はこの手の「ほめたたえ」が得意である。
世間の「批評」というものを読むと、批評している対象についての「悪口」とまではゆかずとも「否定的側面の指摘」が必ずあり、もう手放しで「ほめたたえる」というものを読む機会は、『S教新聞』の書評欄におけるI田D作の著作評などを除くとまず存在しないと申し上げてよいかと思う。
おそらく、人間の知的能力というのは、なにかを「けなす」時に活性化するのであろう。
しかし、その反対の、なにかを「たたえる」時にもそれなりに知的能力が活性化するということはあまり知られていない。
私は「ヨイショのウチダ」と評されるほどの「賞賛批評」の名手であり、その特技を知っている編集者のいくたりかは彼ら自身が好きな書き手の著作の書評を私に依頼する傾向にある。
編集者だって人の子。偏愛する作家はいる。けれども批評的中立性を掲げている立場上、自分で賞賛するわけにはゆかない。誰かに代ってほめてほしい。けれども、「とりあえずほめる」批評家というのは非常に少ない。
そこで、私が白羽の矢を立てられることになるのである。
これはなかなかマーケティング的にもオッケーな展開ではないかと思うのであるが、私に後続する世代の中に次代を託すに足るほどの「ほめ屋」というのがなかなか登場しないのが残念である。
これは実は「ヨイショ」がかなり高度な技術を要することによるのではないか、と私は考えている。
誤解している方が多いが、「ヨイショ」と「阿諛追従」は違う。まったく違う。
「阿諛追従」はほめることによって何らかのリターンを得ることを期待して行われる。業界の権威とか政治的権力者とか、そういう人に阿ることで私利私益をはかろうとするのが「阿諛」である。
「ヨイショ」は違う。
「ヨイショ」もまた批評している当の人に「何か」をして欲しいという遂行的な動機でなされることに変わりはない。だが、私がその方にして欲しい「何か」はとは、私一個人の私利私益にかなうものではなく、むしろ広く「満天下」がそれによって益を得るところのものなのである。
芸術家も哲学者も「ほめられると舞い上がり、けなされるといじける」という点において凡夫に少しも変らない。
そして、私たちが彼らに求める唯一のことは、彼らがその才能を最大限度まで開花させ、それによって私たちの世界に少しでも多くの美と知恵と愉悦とをもたらすことである。
だとすれば、どうしてクリエイターたちを「ほめまくり、それによって世界を豊かにする」という戦略を批評家たちが回避するのか、私は訝しむのである。
おそらくそれは批評は批評として作品からは自立しており、批評家もまた芸術家や作家や哲学者と創造性において「タメ」なのであるという考え方を批評家たちがしているからであろう。
もちろん「タメ」で結構なのであるが、批評家の批評性は、批評されている当の作品からいかに「豊かなもの」を生成せしめるかという点にかかっており、そのためには必ずしも「寸鉄人を刺し、快刀乱麻を断つ一刀両断的評言」というようなものばかりが有用なわけではないだろう、と私は考えている。
私はほめたたえることを通じてクリエイターを勇気づけ、その生産性を高めることは批評家としての重要な仕事のひとつだと思っているのだが、共感して下さる方はあまりいない。
というわけでさらさらと山本浩二をほめまくる跋文を書き上げ、つづいてさらさらとそれを仏訳する。
この作品写真集は日本語、フランス語、英語、イタリア語の四カ国語ヴァージョンで発行され、私の日本語オリジナルを別の訳者たちがそれぞれ英語、イタリア語にされるのである。
さらさらと書き上げたので、つぎは『エピス』の映画評をこれまたさらさらと書く。
今回取り上げたのは『きみに読む物語』。
どんな映画かぜんぜん知らずに越後屋さんが夜陰に乗じてポストに投函していった「マル秘越後屋ビデオ」で鑑賞したのであるが、たいへんに面白かった。
どこが面白いかというと、これが「1920-40年代アメリカの、南部または中西部を舞台にした、身分違いの恋に身を灼く青年の爽やかな生き方をその父子関係を軸に回顧する」という話型をとっている点で『ビッグフィッシュ』とまったく同じだからである。
時代と舞台だけを取りあげれば『シービスケット』もそうだし、父子関係が軸という点では『ロード・トゥ・パーディション』もそうだった。
つまり、今アメリカの観客がいちばん見たいのは、「1920-40年代」(それは「ジャズエイジ」と「大恐慌」と「第二次世界大戦」を含む、アメリカ人にとってその人間的資質の深みとタフネスがもっとも厳しく問われた時代である)の「自然にみたされた美しい田園」(汚れた大都会じゃダメなのである)で、父が子供たちに敬愛され、母が優しく、恋愛が純粋だった時代の「一瞬のきらめき」を切り取ったような絵柄なのである。
というようなことを『エピス』に書く。
所要時間30分。
毎日映画評だけを書いて暮らせたらどれほどハッピーなことであろう。
毎日2時間映画を見て、30分で批評を書いたら、残りの22時間半は遊んでいればいいのである(映画を見たり、映画評を書いたりして!)
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