止まらない大学の凋落

2005-01-30 dimanche

前期入試最終日。午前中だけ英語の試験監督。
受験生が少ないので仕事は監督も採点もらくちんである。
しかしこの「らくちん」はぜんぜんよいことではない。
できることなら、教室から受験生があふれ、トイレの前には長蛇の列、試験の採点のために三日三晩宝塚ホテルにカンヅメされた教員たちがノイローゼでつかみ合いの喧嘩…というような状況の方が経営的にはたいへん好ましいのである。
しかし、志願状況を拝見するに少なくとも関西エリアではそのような「うはうは」状態の記憶の彼方に消えたと申し上げてよいであろう。
関西の私学の出願状況については
http://shigan.kokokusha.co.jp/osaka.html
に詳細が出ている(ユーザーネーム shigan パスワード 2005 でアクセスできます。あれ、いいのかな、こんな情報公開しちゃって…)
データによると、志願者数が前年比100%を超えた大学はほとんど存在しない。
28日段階で京都では同志社が117%で一人勝ち、「常勝」の立命館でさえ84%。あとはほとんど討ち死に状態である。
本学のライバル校である同志社女子大が79%京都女子大が74%。
もちろんこれらの数値はまだ最終的に確定したものではない。後期入試が残っている大学では、これにかなりの上積みがあると思っていただきたい。
大阪は悲惨である。
関西大学の91%が最高で、あとは軒並み前年比30-60%。
兵庫では関西学院大学が101%でダントツ(前年比100をクリアーしたのはここだけだ)。
阪神間の女子大を見ると甲南女子が66%、生活文化学科を新設した神戸松蔭が大健闘の94%、親和と神戸女子大が60%、武庫川が80%。
その中で本学は88%
これはまあ「健闘」と申し上げてよい数字であろう。
とりあえず京阪神エリアで受験生を競合する女子大(京都女子大、同志社女子大、武庫川女子大、本学)の中では一位を確保したことになる。
それにしても、関西私大の凋落ぶりはすさまじい。
2004年度ですでに相当数が前年比50%というような下落傾向だった。そのさらに50%ということは、わずか二年で75%のクライアントを失ったということである。
すでに全国私学の定員割れ学科数は30%に達しているが、今年は40%を超えるかもしれない。
定員割れが続けばいずれ確実に「経営破綻」する。
教職員数を大幅に減員したり、教育インフラへの投資を減額すれば、短期的には支出を抑えることができるが、そのようにして教育サービスの質を低下させた大学を選択する学生がいるはずがないので、これは自殺行為だ。
つまり、いまの教育環境を維持すればさらに採算割れし、経営を優先して教育環境を低下させれば志願者はますます離れて行く…・という「進むも地獄退くも地獄」状況にこのあと相当数の私学が追い込まれてゆくのである。
どうして「こんなこと」になったのか?
みなさんだって不思議だろう。
前から言っているとおり、大学のマーケットサイズは「18歳人口」であり、そのサイズはいまから18年前に端数まで明らかだったのである。
20年前から2005年には「こんなこと」になるのがわかっていたのである。
それでいながら、ほとんどの私学が有効な対策を講じないまま便々と歳月を過ごしてきた。
私学の経営者と教授会が思いついたのは「専門性に特化した(短期的に換金可能な資格や免許を出す)新学科」だけであった。
たしかにそういう新学科を新設すれば、一二年は物珍しさで学生が集まる。
しかし、見たとおり、ほとんどの場合、わずか数年で効果は消える。
残るのは先行投資の負債と、専門に特化した(ということは、それ以外の教育領域にシフトできない)「使えない教員」たちという「二重の負債」である。
どうして、そんな愚行をどこの私学も繰り返すのか?
もちろん理由はひとつしかない。
「ほかがそうしているから」である。
あきらかに見通しの立たない選択肢であっても、「ほかがやっている」ならオッケーなのである。
失敗したときに「ほかがやっていたから」というエクスキュースが通るからだ。
個人的責任を問われないのなら別に大学なんかつぶれても構わない。
そう思っている点では、銀行の頭取も企業経営者も官僚も政治家も同じである。
それが日本のエスタブリッシュメントの「標準」的なモラリティなのである。
この20年、そうやって多くの銀行がつぶれ、多くの企業がつぶれ、多くの第三セクターが破綻した。
しかし、大学はその経験から何も学ばなかった。
本学教授会が採択した戦略は「ダウンサイジング」である。
学生が定員割れしてから教育サービスを劣化させるためのダウンサイジングではなく、十分な倍率で志願者がある段階で選別を厳しくして、学生数を絞り込み、一人当たりの教育リソースの集中を高め、教育活動とそのアウトカムの質を向上させてゆく。
それによって大学に対する社会的評価を高める。
もちろん学生数の減少は端的に私学にとってはただちに収入の減少を意味するから、そのためには経営の「スリム化」が不可欠であろう。
「スリム化」というのは別に非人情なリストラのことではない。
削れる「贅肉」はいくらでもある。
それがきちんとできれば、この先のかなりきびしい状況下でも本学は生き延びていけると私は考えている。
しかし、見回すと、市場に先手を取られて「定員割れ」に追い込まれる前にすすんでダウンサイジングを選んだ大学は一つもない。
なぜ?
「そんなことをした大学がない」からだ。
十分に合理的な選択肢であるにもかかわらず、「前例がない」という理由でこの戦略を検討さえしなかった大学がいま志願者の激減という事実を前にして呆然自失している。
大学の淘汰、学校法人の解散、というのは日本教育史上に「前例がない」事態である。
その「前例がない事態」には「前例がない処方」で応じるほかないだろうと私は考えている。
ひとつ問題は、本学の志願者数が「相対的に多い」という事実である。
「今のままでもけっこういけるじゃないか…」という現状認識はほとんどの場合制度改革への意欲を殺ぐ結果をもたらすからだ。
もちろん、志願者が多いのはうれしいことなのだけれど、「小成は大成を妨げる」ということばも同時に噛みしめなければならないのではと私は思う。
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