銀色夏生さんからお手紙ついた(編集者ったら、読まずにしまいこんだ)字余り

2005-01-29 samedi

銀色夏生さんという詩人の方からお手紙が来る。
すごくかわいい字で「御本をたくさんよませていただきました」「これからもよませていただきます」「長生きしてくださいね」ほか心温まる文言が記されており、本を読むネコのマンガが五態細いペンで書き込んである。
日付をみると、これがなんと2004年9月13日。
K川書店の担当編集者が銀色夏生さんから預かってそのまま忘れていたらしい(ひどいやつだね)。
それがようやく私の担当編集者の江澤さんを経由して私の手元に届いたのである。
これこそ「迂回させられた/受難する手紙」 la lettre en souffrance である。
さっそくお手紙に記されていたメールアドレスにお礼とお詫びのメールを送る。
ところが、私はたいへんたいへん申し訳ないことに銀色夏生さんという方の書いたものを一つとして読んでいない。
もちろんご高名はかねてから存じ上げていたのであるが、私はなぜかこのひとをはなから「男」だと思い込んでいたのである。
「銀色夏生」というペンネームを選ぶ男…
私は瞬間的に「マツモトタカシをさらに『なよっ』とさせて、タケモトノバラをさらに『ナルシスティック』にしたような男」を思い浮かべてひとりで寒くなっていた。
まことに申し訳ないことをした(マツモトタカシさん、タケモトノバラさんに対してもあわせてご無礼をお詫び申し上げます。Don’t take it personal …)
ともあれ、痩身、ネコ毛、色白の男の人が小指を立てて紅茶を飲みながら、「岩場のこぶた」というようなタイトルの本を書いている場面を想像していただきたい。
このような愚かしい空想に取り憑かれた中年男の身を、K川文庫に並んでいる銀色夏生さんの本を手にとって拡げるという機会が恵まなかったことついてはご同輩の相当数も「やむなし」とご共感いただけるのではないかと思う。
まことにわが不明を恥じる他ない。
お詫びのお手紙と『先生はえらい』サイン入り本(が手元にないので、筑摩から献本してもらい、私は「ネコマンガ入りしおり」を郵送することにする。これで「合成サイン本」をご自宅で構築してもらおうというのである)をお送りする。
これで、小池昌代さんに続いて、女性詩人からお手紙をもらうのは二人目である。
私はご承知のとおり、詩想の片鱗もないがさつでワイルドな武闘系レヴィナシアンである。
それが透明で繊細な詩風をもつ女性詩人たちに「文人として認知される」ことになったわけである。
これはどういうことか。
もしかすると私のテクストには、書いている本人も気づかない「詩」のようなものが伏流している、というようなことがあるのであろうか。
たとえば、今書いた文の「伏流している、」というときの「、」の措辞というようなところに。
大量のインターネットテクストを書き飛ばしているうちに、私自身気づかぬうちに「詩人の魂」が私の筆先に宿ったのであろうか。
Poete sans le savoir あるいは poete malgre soi(これだと「いやいやながら詩人にされ」だな)というような何かに私はなってしまったのであろうか。
うーむ、わからん。
しかし、どのような破格にして冒険的な現代詩人であろうと、「うーむ、わからん」というような一行をその詩編の中に置くというようなことはありえないであろうから、私のエクリチュールが「詩的なものになった」という可能性はこの段階で除外してよろしいかと思う。
となると、あれかな。
かつて『聖風化祭』に私が哲学的なややこしい文章を寄稿していた頃、「石沢玄」くんが慰め顔で告げてくれたように、「ウチダの場合は、ロジックのうちに詩的なものがあるから、それでいいんだよ」ということなのであろうか。
文章はバリがさつだが、論理の骨格には一掬の詩魂がある。
というようなことがこの世にあるのであろうか。
なんだかあまりありそうもないような気がする。
ともあれ、女性の詩人たちと「文通」することができる身分になってウチダはたいへんうれしいのである。
本というのは出してみるものである。
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