社会理論の汎用性と限界

2005-01-28 vendredi

ナバちゃんと光文社の古谷さんと会ったので当然ながら『オニババ化する女たち』をめぐる議論の中間的な総括が試みられた。
『論座』の田中美津論文がフェミニズムの歴史的凋落を告げる「弔鐘」の兆候であるという評価において、私とナバちゃんはそれほど違わない。
ナバちゃんは私とちがってジェンダー論やフェミニズムにはかなり理解の深い方であるが、それでもフェミニズムが社会理論としてドグマ化し、一部で抑圧的に機能していることには哀しみを隠さなかった。
誤解しないで欲しいのだが、ある社会理論がドグマ的になったり、抑圧的になったりするのはその理説が本質的にドグマ的であったり抑圧的であったりするからではない。
あらゆる社会理論はどこかでドグマ的、抑圧的なものの芽を抱え込んでおり、それを免れている理説は存在しない。
私たちが「教条性」や「権力性」と名付けるものはその理論に内在する何らかのネガティヴな「本質」ではなく、それが表出するときの「程度の問題」に関与して生じる何かである。
その理論が妥当性や適用範囲を「適切である以上に過大評価されること」を望むと理論はドグマ的になり、仮説の妥当性や適用範囲を「過大評価することを恥じる」と理論はあまりドグマ化しない。
「あまり」という副詞が示すように、こういうもののよしあしにデジタルな境界線はない。
「まあ、許容範囲でしょうかね」と「ちょっと、そこまでされると困るんですけど・・・」というあたりのみきわめは経験的なものである。
違いは、仮説を差し出すときに、論者の「頭が高い」か「腰が低い」かという点にしかない。
「頭が高い」理論はうまく妥当しない事例や適用しない方がいい場面に強引に進出し、言を左右にして過誤や失敗を認めたがらない。
「腰の低い」理説は妥当する範囲に踏みとどまり、反証事例が示されると「へへへ」と頭を掻いてすぐに撤退する。
ビジネスに喩えて言えば、巨大資本・単一のビジネスモデルで全国一律に巨大店舗を展開するスーパーチェーンと、地元のお客さんだけ相手に細々と商売をしている老舗の蕎麦屋くらいの違いである。
両者の間には「サイズの違い」しかない。
しかし「サイズの違い」というのは考えてられているよりもずっと質的な変化に関与するものなのである。
「大きい理論」はその理論が「どこまで広く適用可能できるか」という拡大の可能性に関心があり、「小さい理論」はその理論が「どこから先には行かない方がいいか」という節度のたしかさに関心がある。
繰り返し申し上げているように、フェミニズムが社会理論として抑圧的に機能しはじめたのは、その支持者の一部が、フェミニズムが適用できる限定的な範囲を超えて「万象を説明できる統一理論」であることを欲望したときに始まる。
そして私が知る限り、どのような社会理論もひとたび「統一理論」でありたいという欲望を持ってしまったあとは、いかなる努力ももうそれを引きとどめることはできないのである。

東京に行く新幹線の中で、上野輝将先生にいただいた「ポスト構造主義と歴史学―「従軍慰安婦」問題をめぐる上野千鶴子・吉見義明の論争を素材に」を読む。
上野先生が『日本史研究』に寄稿された論考の抜き刷りである。
上野先生は上野千鶴子によって「文書史料主義」と糾弾された歴史学者の側から、上野千鶴子の「ポスト構造主義的」歴史学批判を反批判している。
最初のうちは上野千鶴子批判を「ひとごと」のつもりで気楽に読んでいたのであるが、だんだん襟をただして粛然とした気分になってきた。
それは上野輝将先生の「ポスト構造主義的」な方法の批判がまっすぐ私自身の学術的な方法への批判にもつながっているように思えたからである。
ご存じの方も多いであろうが、この上野・吉見論争は上野千鶴子が「従軍慰安婦」問題についての先行する歴史学的研究を「文書史料至上主義」としてしりぞけたことに始まる。
その論拠を上野は次のように定式化している。

「公文書というものは、もちろん官が現実をどのようにコントロールしたかという記録にほかならず、被害を受けた人たちの現実については何一つ語っていません」(「ジェンダー史と歴史学の方法」)

「抑圧されてきた記憶や社会的弱者の語りというものは、まず第一に支配的な言説に自分を合わせようとする磁場のなかにおかれています。したがって、本当のこと、すなわちその人にとってのリアリティを聞き取るには、その語りのなかにある矛盾や非一貫性にこそ研究者は価値を認めるべきだ」(同)

上野千鶴子の「構築主義的」立場によれば、歴史的事実というのは、そのつどの歴史的文脈の中で遡及的に再構成されてゆくものであり、「視点が『事実』を構築する」。「正史」に対してはつねに「もうひとつの歴史」が対置され、「科学的で客観的な歴史など存在しない」。
上野輝将先生は、このような構築主義的な歴史相対主義に対して、吉見義明に与する立場から、次の点を指摘する。

(1)オーラルヒストリーを史料として重用することは歴史家の常識に属す
(2)どの史料に信頼性があるとするかは、そのカテゴリー(公文書か被害者の証言か)によるのではなく、当該史料がどの程度歴史的事実を明らかにし、整合的な説明をもたらしたかによって事後的に査定されるのであり、信頼性や価値は史料そのものに内在するわけではない
(3)「視点が事実を構成する」というルールを認めると、どの現実をとるかは「それを構成する視点」のうちのどれを選ぶかによって決まり、それは個人の嗜好や信仰の次元に帰着する

といった指摘をふまえて、上野輝将先生は「表象」や「視点」や「パラダイム」といった用語で歴史をとらえることの危険性について稠密で執拗な反論を上野千鶴子に加えている。
その詳細は割愛するけれど、私はここで考えこんでしまった。
上野輝将先生の「視点」からすると、おそらく私もまた上野千鶴子と同類の「ポスト構造主義者」、「構築主義者」に分類されることになるのではないかと思ったからである。
というのは、私も上野千鶴子と同じく、「語るもの」の視点、「語り」の語法、「語るとき」の文脈に応じて、そこで提示される「事実」はめまぐるしく様相を変えると考えているからである。
だから、「何が事実か?」という問いに対しては、つねに「という問いを発しているあなたは、どういう視点からその問いを立てたのか? あなたが『事実』として見たがっているものは何か? どのような『事実』が見出された場合に、あなたはどのような『利益』をそこから得ることになるのか? その利益があなたの視点に無意識なバイアスをかけてはいないかという問いをあなたは自分に向けているか?」といった一連の「鬱陶しい」問いをもって応じてしまうのである。
しかし、このような「問いに対して問いをもって応じる」仕方は、たしかに歴史学者の眼には、ある種の不可知論への退行、客観的・中立的事実を探求することの放棄として映る可能性がある。
上野輝将先生の上野千鶴子批判は次のようなことばで締めくくられる。

「以上、言説=『表象』、『パラダイム』の転換と上野が使う認識論の用具が、『慰安婦』問題の具体的なケースでどのような矛盾に逢着するかを検証してきた。一方で自明な『事実』などないといいながら、その『認識論』自体が自明な『事実』から組み立てられていること。多様な『言説』の同格を言いつつ、他方で特定『言説』の説明不能な選択を行うこと。真偽の次元を超えてと言いながら、『証言』の真偽取り混ぜた『事実』に固執すること。『事実』よりもその捉え方の『変化』が問題だといいながら、『事実』以外にはその『変化』を説明できないこと、『視点が事実を構成する』と言いながら、ではその『視点』はどのようにして『構築』されるのかについては語らない(語れない)、等々。
 そもそも『視点が事実を構築する』という上野認識論では、『事実』=史料も歴史家によって構築され、研究主体と研究対象は分離できない。対象からの距離がないと分析はなりたたず、分析がなければ理性的な認識もありえず、残るは直感や論証なき決断の世界であろう。結局、上野の価値絶対主義的方法論と価値相対主義的認識論の同居は、分析なき『歴史方法論』と認識なき『歴史認識論』の合体であったと言う他ない。」(『日本史研究』、509号、2005年1月、17−18頁)

私はこの批判をとりあえず自分に向けられたものとして読んだ。
私もまたある種の不可知論の際に立って仕事をしている。
つねづね申し上げているように、私の判断の多くは「経験的事実」に裏打ちされた「直感」と「論証なき決断」によって構成されている。
どの「事実」を「経験的にたしかなこと」として選択するかは私の判断に委ねられており、であれば、「事実が私の判断を基礎づけた」のか、「私の判断が事実を選択させている」のかを私自身は言うことができない。
この点において、上野先生が上野千鶴子に向けている批判はそのまま私にもあてはまる。
私がそれでも「いい加減なことをいうやつだ」という以上の批判を識者から受けることがないのは、私がぎりぎりのところで「自分がどれくらい信用できない人間であるか」の告知義務を果たしているからである。
私はたとえば、慰安婦問題のような問題についてはあまり偉そうなことは言わないようにしている(よく知らないから)。
おそらく上野千鶴子がここで歴史家たちから十字砲火を浴びたのは、上野先生が書いているように、「慰安婦問題」という「具体的なケースにおいて」、構築主義的視点がどのように「歴史学者の仕事を支援できるか」というふうに問題を立てずに、歴史家たちの仕事を(先行研究をあまり読まない段階で)いきなり否定するという挙に出たせいである。
たしかに上野千鶴子的な構築主義史観は、政治的立場が弱く、表現の方法が限定された「証人」たちのことばを「歴史的史料」として前景化したという点で評価すべきだし、これからも歴史家の仕事に貢献することができただろうと私は思う。
しかし、証言のリアリティーを前景化したという貢献をもって歴史家たちのこれまでの仕事へのラディカルな批判が遂行されたと信じるのは適切な自己評価とはいえない。
構築主義はたしかに有効な社会理論であるけれど、あらゆる社会理論がそうであるようにそれが「とりわけ有効である範囲」は限定されている。
そういう理論は「とりわけ有効である範囲」にのみ限定的に適用し、「あまり有効でない」領域では、一歩退いて「そこで有効な方法を支援する」という「雑巾がけ」仕事に専念したらよいと私は思う。
しかし、上野千鶴子は歴史学の領域においても「雑巾がけ」や「黒子」役での有用性に満足することができなかったらしい。
結局そのせいで、構築主義者は今後歴史家のかなりの部分からは「立場の違う共同研究者」ではなく「仕事の邪魔をするやつら」というふうな否定的評価をもって眺められることになる可能性が高い。
それは歴史研究にたいして構築主義がもたらしえた貢献を私たちは失ったということを意味する。
私は(ポスト構造主義「以前」の方法論にいまだに固執する)「構造主義者」としての立場から、このような研究者間の協力関係の断絶と、今後ありえたかもしれない成果の喪失を悔やむのである。
欲張りすぎると、手に入ったはずのものも失ってしまう。
上野がおそらく幼稚園の頃に読んだ絵本にも書いてあったはずの教訓を見落としたのは彼女の個人的な徳性や知性とはかかわりがない。
それは繰り返し言うように「あらゆる社会理論はその汎用性を過大評価する傾向にある」という法則がここでも作用したということにすぎない。
話が長くなったので、まとめにはいるが、上野輝将先生の論文を読んで、私が感じたのは、この上野千鶴子批判はほぼそのまま私にも当てはまるということであった。
それでも私がこの尊敬する同僚からの致命的な批判をまぬかれているのは、私が「できないことには手を出さない」「知らないことには口をはさまない」という保身術を実行していることと、それでも(欲が出て)手を出したり口を出したりする場合は、必ず「自分がどれくらい信用できない人間であるか」の告知を怠らないこと(それは「私の言うことの真偽判定はみなさんがしてください」という「訂正の回路」をつねに開いているということである)によって担保されているからである。
そう私は思っている。
しかし、この「自分のバカさをあらかじめ告知しておけば、何を言ってもへいちゃら」という理論の汎用性を私自身が過大評価した場合、私の身にはいったいいかなる天罰が下るのであろうか・・・
あ、その場合に私の身に天罰が下るのは私の理論の正しさを証明することになるわけだから、ぜんぜんオッケーなんだ。
なんだ、そうか。
こりゃ気楽でいいや。
正しくても間違っていても、どちらにしても正しい。
これは最強の理論だな。
たいへん汎用性が高い理論なのに、採用してくれる人がぜんぜんいないというのが唯一の欠点ではあるが。
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