正しい歯医者の見分け方および昔のゼミ生と会ったときの適切な応対について

2005-01-27 jeudi

ぼろぼろになって起き出して、とりあえず予約を入れていた歯医者に行く(メル友の鈴木晶先生もいま歯ではえらい目に遭っているようであるが、歯が痛いのはつらいですよね)。
小休止ではなく小臼歯が(ああ、この変換ギャグはキーボードを打つ前に予見されていた)ぐらぐらになっていて、「あ、これは抜きましょう」とずっぽり抜かれてしまう。
「あ、こっちの小臼歯もダメだなあ・・」
ということはどんどん歯がなくなっちゃうってことですか、E阪先生!
私の通っているE阪歯科は「看板の出てない歯科医」である。
あまりに名医なので、これ以上患者が来て貰っては困るので、ふつうの家で診療をされているのである。
だから「ご紹介」の方しか診療していただけないメンバーズオンリーの排他的な歯科医なのであるが、私は「名医は名医を知る」の法則に従って三宅先生のご紹介でこの希代の名医の治療を受ける恩恵に浴しているのである(E阪先生は三宅先生に職業病の腰痛を治して貰っている)。
歯科医についての名医の条件をひとつだけ申し上げるなら、「決して患者を責めない」ということである。
これまで私が通ったすべての歯科医は私の歯を診たあとに、「あのね・・・ブラッシング、ちゃんとやってないでしょ。歯垢がべったりついてるよ。ああ、こんな磨き方じゃもう何年もしないうちに歯なくなっちゃうよ。おら、鏡で見てご覧よ、このきったねー歯垢」というようなことをばりばり言われるのである。
先方の言うことはまったくごもっともなのであるが、こちらは「歯が痛い」、「仕事のあいまに必死に時間を作って診療に来ている」、「治療費を払っている」などもろもろのネガティヴ・ファクターをすでに抱え込んでだいぶへたっているのである。
それに追い打ちをかけるように「これはすべてあなたの自業自得である」と宣告されて、「では、これから未来永劫にこの歯科医について行こう」という意欲が湧くかというと、凡夫の悲しさで、そういうふうにはならないのである。
こちらも、「歯が痛くない」、「ひまでしょうがない」、「金がもらえる」などの条件が整っている場合であれば、かかる叱責を甘受するにやぶさかではない。
しかし、これでは「盗人に追銭」(これはちがうな)というか「弱り目に祟り目」(あ、こっちね)である。
歯科医に継続的に通院して適切な治療を受けるためには、「歯科医に行っても人格的欠陥を問責されない」という条件が欠かせないと私は思う。
人間は弱いものである。
「歯が痛い」と「私は愚かな人間だ」というふたつの事実(事実だから反論できない)に同時に直面できるほどタフな人間はあまりいない。
せめて一方の心的負荷だけは解除していただけないものか。
その点で、E阪先生は「名医」である。
先生はすべてを「歯のせい」にしてくれる。
「ああ、この歯はもうダメですね…弱い歯だったんですよ。でも、大丈夫、隣の歯は丈夫だから、これにブリッジしてインプラントでいけますよ」
というふうに患者である私と治療者である先生がともに「悪い歯」によって受苦する「共通の受難者」という立ち位置を取られるのである。
歯医者の治療行為というのは「痛い」ものである。
その「痛み」の責任は「痛がっている当人」が100%引き受けるべきであるという「物語」の文脈に身を置いて「痛み」を引き受ける場合と、その「痛み」は私とは無関係であり、私はむしろ歯の痛みの「被害者」なのであるという「物語」のうちで歯をがりがり削られるのでは、痛みの意味が違う。
その点で、E阪先生は名医であると私は思う。
先生はかなり痛い治療もおそらくはされているはずであるが、私はそれをあまり感じない。
それは「痛み」と「私」のあいだにE阪先生が断絶を設定してくれているからである。
『野生の思考』の冒頭でレヴィ=ストロースは呪術医療の治療効果は「物語」の力であるということを述べているが、物語の力が威力を発揮するのは近代医療においても少しも変ることはないのである。
治療を終えて、だらだら血が出る歯茎にコットンをあてて「ふぎのよはくはいふへふか」とぼそぼそとつぶやいていると、E阪先生の奥様が抗生物質を出してくれる。
「ごはんたへてもいいへふか」とお訊ねすると、にこにこ笑いながら「食べてもいいですよ、でも血の味がしておいしくないわよ」とご懇篤な知見を語って下さった。
はふはふしながら、次はK田くんと面接で修論のチェック。
この状態で「レズビアニスムのジェンダー論的意義」について論じるのは困難なのであるが、約束しちゃったものはしかたがない。
芦屋のカフェでK田くんを前に1時間半ほど修論の問題点を指摘して、すでに性化されている論者が「性化のメカニズム」について論じる場合の「バイアス除去法」について語る。
同性愛について論じているK田くんは、ご本人の意図と無関係に1980年代生まれの阪神間のお嬢さんで神戸女学院大学の大学院生というきわめてローカルな性規範のうちにすでにはめこまれている。
その性規範を批判する場合でも、「私にとってきわだって癇に障る性規範」を選択する自由はない。
性規範を批判する人間自身が、どのような性規範をとりわけ選択的に批判するように条件づけられているのかという問いを自分に向ける習慣があるかどうかが批評性を最終的に担保するのである。
というようなことをはふはふしゃべる。
滑舌が悪かったので理解しにくかったであろう。
K田くん、ごめんね。

26日は朝から自己評価委員会。
姉妹先生と良い先生(じゃなくて、島井先生と飯先生)と朝の10時から午後2時まで、教員評価システムの委員会原案を練る。
原案をあれこれいじりながら、ついでにあれこれととんでもない話をする。
あまりにとんでもない話なので、もちろんこのような場で公開することはできぬのである。
夜は光文社新書の『現代思想のパフォーマンス』の出版記念パーティ(っていうのかなあ)をハービスエントの「あげさんすい」にて開催。
ナバちゃんと光文社の古谷さんとご一緒に天ぷらを食べる。
どうもこの店にゆくといろいろな人に会ってしまうのであるが、今日はやあやあと店に入ってゆくといきなり若く美しい女性二人に嫣然と微笑みかけられて、やっどうもと片づかない顔をしていると「センセイ! 私のこと覚えてないんですか!」と責められる。
あの…・どなたでしょう。
昔のゼミ生であった。
しかし、私も劫を経た教師であるからこういう時の逃げ口上はうまいぞ。
「あ、ムカイくんじゃないか。なんだ、すごく痩せちゃったから、わからなかったよ」
逆ヴァージョンは自殺行為だけど。
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