『先生はえらい』!

2005-01-21 vendredi

筑摩の吉崎さんが芦屋に来る。
『先生はえらい』がいよいよ出版されたので、その見本刷りをご持参下さったのである(ついでにもろもろのビジネス的交渉もなされた)。

先生はえらい/ちくまプリマー新書002

ご持参の「あんこもの」を頂きつつ、「首都大学東京」的な教育理念がどうして豊穣な成果をもたらし得ないのかについて、あれこれ語る。
『先生はえらい』という私の書物のコンセプトに即して言えば、「首都大学」的教育理念はひとことに尽くせば「先生はえらくない」である。
先生はえらくなく、大学はできれば学生がそこに立ち寄らない方がよい場であり、学術情報は「銀行預金」のようなものとして観念されているのであるとするならば、そこではいかなる「学び」も成立しないであろう。
もちろん、できるだけ少ない労力で学士号をゲットしたいというふうに功利的に発想する青少年のいくたりかは首都大学に集まるであろうが、何かを「学びたい」という欲望を喚起する力はそこでは構造的に損なわれている。
現に、大学の教員公募にはフルエントリーしているはずのM武くんも、なぜか首都大学だけにはアプライしなかった。
その消息をご本人は私あてのメールでこう述べている(勝手に引用してすまぬ)。

ちょうど就職活動する意欲が湧いてきた時期だったので、公募サイトで社会学系の求人をいくつかアップした中に、首都大、ありました。
片っ端から出すつもりで揃えたものの、無味乾燥で無個性なはずの公募情報の行間から、なーんか、実に、いやーな予感がしたんですよね。
・・・これはヤバイ大学だ、うっかり出して採用されたら大変だ、と、不遜にも選り好みして、出しませんでした。

マブダチのIは、とにかく就職したがってるので、「もしかして、首都大学、出した?」と恐る恐る聞いたら、「出してない。ヤバそうだもん」と即答。
見つけた公募は隣接分野まで全て応募、を旨とするIすら回避。

教員を大事にしてくれなさそうな公募条件でした。
意欲や自信や危険察知能力のある若者は、あまり応募しないでしょうね。
どんな人が応募していて、どんな人が採用されるんかな?
そういう点で、私にとっても展開が興味深いです。

というなかなかに興味深いコメントである。
首都大についてほとんど何の情報も持たないまま猟官活動に精を出している諸君にしてかくのごとく本能的危機を察知されているわけである。受験生諸君の直感はどのような反応をするのか、私も興味深いです。
『先生はえらい』は吉崎さんが筑摩に移って企画出版した最初の本だそうである。
当然、メジャー移籍初打席ホームラン、スペインリーグ移籍初ゴールを切望するのは人情のしからしむるところである。
私もできることなら彼の初夢をかなえて差し上げたい。
ともあれ、セールス的にはなかなか見通しは悪くないと私は思う。
第一にタイトルがよい。
「先生はえらい」
八文字であるが「せん」の「ん」は撥音であり「せい」は「せー」であるから、それぞれ0.5モーラずつ引いて、7モーラ(拍)とカウントしてよろしいであろう
よいタイトルの条件は「5モーラ」あるいは「7モーラ」である。
この法則は朝カル・プチ宴会の席で白石、藤本という二人のスーパー・エディターがすでに看破したものである。
なぜタイトルのモーラ数が問題になるかというと、5モーラ、7モーラのタイトル名は「言いやすい」からである。
友だち同士で本の話題をするときに、「言いやすいタイトル」の書物はあきらかに「言いにくいタイトル」よりも言及回数が有意に多い。
『燃えよ剣』は『燃えよ剣術使い』よりも、『ドラゴンボール』は『ゴルフボール』よりも、『身体と間身体の社会学』は『身体と間身体の科学』よりも言いやすい。
微妙な差ではあるけれど、「口頭に於ける被引用回数」において、5モーラ、7モーラあるいはその組み合わせによるタイトルはあきらかに有利なのである。
だから、同一の書物が『先生はえらいのである』とか『先生がえらくてなにか問題でも』いうようなタイトルになると、当該書物について話題にする意欲が微妙に殺がれるものなのである。
第二に、「先生」をほめる本というのは払底して久しい。
現代日本においては学校と教師と文部科学省の悪口はいくら言っても誰も咎めない、ということがメディアの「常識」となっている。
常識となったのには、それなりに悲しい「前史」というものがあるので誰を責めることもできぬのであるが、それにしても、そろそろ『学校は愉しい』とか『先生はえらい』とか『がんばれ! 文部科学省』とかいう本が出てこないと世論の行き過ぎに対する補正というものができないのではないかと私は危ぶむのである(文部科学省から要請があれば、私とて『がんばれ! 文部科学省』の企画を出版社にオッファーするにやぶさかではない。神戸女学院大学への補助金支給についてご高配いただけるのであれば、「やぶさかでない」を「前向きに検討」に書き換えてもいい)。
当然、そのような励ましのことばに飢えている日本中の「先生」たちがこのタイトルを書店で見たときの反応は想像に難くない。
私のようなリアルでクールな人間でさえ、仮に書店で『仏文学者は頭がいい』とか『合気道家に恋をして♡』というようなタイトルの本を見た場合には、とりあえず内容にかかわらず「これは購入して内容の当否について仔細な検討を加えねばなるまい」という決断をためらうことはないであろう。
日本中の学校の先生のおおかたの自制心を私と同程度と想定するならば、これは「非常にキャッチー」なタイトルと申し上げてもよろしいかと思う。
それゆえ、日教組と文部科学省が揃って本書を「指定推薦図書」にするという可能性も完全には排除できない。
「先生」について書かれた本で、日教組の悪口も文部科学省の悪口も書いていない本などというものはおそらく現存しないからである。
それどころか、この本には生徒学生諸君の素行を難じることばも、家庭教育の不備を憂うことばも、自民党文教族を咎めることばも、ひとつとして書かれていないのである。
そのような教育論はきわめてレアであると申し上げてよろしいかと思う。
では、いったいこの本は何を難じているかというと、
驚くべきことに、何も批判していないのである!
そのような教育論をあなたは読んだことがあるだろうか。
私はない。
既存のいかなる制度文物をも批判せずになお成り立つ教育論とはいかなるものか。
私だっていきなりそう訊かれたら、見当もつかない。
書いた本人が見当もつかない本なのであるから、まだ読んでいない人々がその内容を忖度することは絶望的に困難であろう。
そういう本をあなたは読まずに立ち去ることができるだろうか?
私ならちょっと読んでみたい。
本屋で立ち読みするくらいのことはしてもよい。
そして、この本のたちの悪いところは、本屋で立ち読みすると、そのままあっというまに最後まで読めてしまうことなのである(なにしろ薄いから)。
それでは本が売れないではないか、とご懸念される方もおられるであろう。
ご心配には及ばない。
最後まで読み終えて深いため息をついたときには、この本の最初の方には何が書いてあったのか、ぜんぜん思い出せないように書物は構造化されているのである。
なにしろ書いた本人が最後まで読み終えたあとに、「どうしてこういう結論になるんだっけ…?」と訝しく思って最初から読み直したくらいである。
さすがにそこまでゆけば、いくら寛容なるジュンク堂他の書店においても、「お客さん、二度読むくらいなら買って帰られたらいかがですか。760円なんだしさ」という購入促進行動を書店員諸君がためらうことはないであろう。
というわけで、『先生はえらい』はもうすぐ全国書店にて発売されるので、私のかかる販促発言の当否を検証すべく、書店において当該書物を手にされんことを祈念して出版のご挨拶に代えさせて頂くのである。
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