NHKの番組改変をめぐって議論がすこし熱くなっている。
これについては平川くんが「たいへん常識的な」(おそらく、それゆえ誰も口にしない)調停案を提言している。
私も同意見である。
政治的意見の公表についての私の立場はわりと簡単である。
「言う人」は好きなことを言いたいように言う。
その適否については「聞く人」に判断してもらう。
おしまい。
「言論の自由」というのは「そういうもの」だろう。
言論の自由というのは「言う自由」のことだけではない。
「言われたことば」の適否を判定する権利を社会成員が「平等なしかたで」分かち合うことも「自由」のうちにはふくまれている。
私が原則として検閲や自主規制というものに反対するのは、それが「適否を判断する権利」は「聞く人・読む人」の全員が分かち合うべきだという原則に抵触するからである。
今回のNHKの事件では、中川と安倍というふたりの政治家がいずれも自分たちには「言論の適否を判定する能力が、自分以外の人間よりも豊かに備わっている」ということを不当前提している。
代議士や与党幹部というのが、そんなに偉いものだったとは知らなかった。
中川昭一は朝日新聞とのインタビューでこう語っている。
―なんと言われたのですか。
「番組が偏向していると言った。それでも『放送する』と言うから、おかしいんじゃないかと言ったんだ。だって(民衆法廷は)『天皇死刑』と言っている」
―「天皇有罪」と言っていましたが。
「おれはそう聞いた。何をやろうと勝手だが、その偏向した内容を公共放送のNHKが流すのは、放送法上の公正の面から言ってもおかしい」
―放送中止を求めたのですか。
「まあそりゃそうだ」
―報道や放送への介入にあたりませんか。
「全然そう思わない。当然のことをやった」
中川という政治家はある意味で率直な人間だと思う。
私はこれだけ読んだときは、慇懃無礼なインタビュアーの口ぶりより、中川の言い方の方にむしろ好感を抱いたくらいである。
中川は「NHKの視聴者には番組で報道される言説の適否を判断する能力がない」ということを前提にしてしゃべっている。
これは民主国家の政治家がその政治活動の前提に採用してはならない社会観である。
中川は、「視聴者はバカだから、メディアがどんなことを報道しても、それを無批判に受け容れてしまう。だから選択的に『正しい』ことだけを報道させるように、私は監視しなければならない。それが政治家としての私の仕事の一部だ」と考えた。
「視聴者はバカだ」ということについては中川に近い判断を持っている人も多いだろう。
私も率直に言って、日本国民のメディア・リテラシーがそれほど高いとは思っていない。
視聴者は公共放送が発信する政治的に「偏向」したメッセージをそのまま頭から信じてしまうということも大いにありうるだろう。
しかし、「だから」以降については、私は同意することができない。
「選択的に正しいことだけを報道する」ということが原理的にありえないからである。
というのは、無数の無価値な情報、虚偽の報道、イデオロギッシュなメッセージの中から、何を聴き取り、何を「正しい」とするかを決定するのは国民ひとりひとりの不可侵の権利だからだ。
中川が「正しい報道」だと思うのは、「中川にとって正しい報道」であり、例えば「私にとって正しい報道」とは重ならない。
中川が永田町内で比較的影響力のある与党政治家であるというだけの理由で、報道内容についての「中川的正しさの基準」が「ウチダ的正しさの基準」より優先されるべきだということに私は同意することができない。
もちろん先方は有力政治家であり、私は無力な大学教員であるから、「中川的正しさ」が「ウチダ的正しさ」に「事実として優先する」のは当り前である(そうでなければ、必死になって選挙運動して国会議員になった甲斐がない)。
しかし、それが「原理的に優先する」ということは認めるわけにはゆかない。
私は「事実のレベルの問題」と「原理のレベルの問題」は同一次元で論じてはいけないということを申し上げているのである。
「視聴者には報道内容の適否を判断する能力がない」というのは「事実のレベル」ではかなり蓋然性の高い主張である。
しかし、「だから適否の判断を視聴者には委ねない(私が代わりに決めてやる)」というのは「原理のレベル」で受け容れることのできない主張である。
民主社会における私たちの人権は「誤り得る自由」も含んでいる。
「誤り得る自由」が認められず、「正解する自由」だけしか認められない社会というのは、人間が知的であったり倫理的であったりする可能性が損なわれる抑圧的で暗鬱な社会である。
そのような社会では、「正解」を語っている人間が、それを「正解」であると決定したときの手続きの適法性や妥当性について検証する権利は「誤りかねない人間」には決して認められないからである。
人々はしばしば判断を過つ。
それはしかたのないこととして受け容れなければならない。
というのも、今「人々はしばしば判断を過つ」と言ったが、そう言っている私の判断の合法性を私自身が基礎づけられないからである(間違っているのは「私」で、正しいのは「人々」の方なのかもしれない)。
「私が正解で、あなたがたは誤答をしている」と決定する権限が私にはないし、あなたにもないし、誰にもない。
じゃあ、誰が決めるんだ、と気色ばんでも困る。
なんとなく、「流れ」で決まるのである。
そういうものなのである。
昔から。
人類の祖先たちがはじめて葬礼を行ったときも、はじめて鉄器を使い出したときも、はじめて稲作を始めたときも、誰かが既成の「正しさの基準」に基づいて、「今日からわれわれは稲作というものを行うことにした、文句あるやつは死刑」というようなことをいったわけではない(たぶん)。
なんとなく、ずるずると始まったのである。
そのとき、「いや、われわれはキューリを主食にするべきだ」というような主張をした弥生人もいたかもしれない。
「南瓜がいいんでねーの」という人もいたかもしれない。
こういうことの適否を決定できる上位審級は当然ながら稲作文化の定着以前には存在しない。
しかし、そのうちに、誰が命令するでもなく「みんな稲作」になった。
投資する手間と回収できる利益のコストパフォーマンスを計測しているうちに、「ま、米だわな」ということになったのである。
私はこのような「長いスパン(100年単位)で考えたときの人間の適否判断能力」についてはかなりの信頼を置いている。
だから、当否の決定のむずかしい問題については「両論併記」や「継続審議」をつねづねお薦めしているのである。
「両論併記」というのは言い換えれば「誤答にも正解と同等の自己主張権を一定期間は保証する」ということである。
あまり知られていないことだが、「言論の自由」の条件の中には、適否の判断を「一定期間留保する」という時間的ファクターが入っている。
正解を急がないこと。
これが実は「言論の自由」の核となることなのである。
「正解を今この場で」と性急に結論を出したがる人は、「言論の自由」という概念を結局は理解できないだろうと私は思っている。
その点では、私は「民衆法廷」というイベントを企画して、戦時責任の問題に「今ここでの白黒の決着」をつけようとした人々の考え方にも個人的にはつよい違和感を抱いている。
「民衆法廷」イベントとその報道を妨害した政治家、一見すると対立して見えるこの二つの立場に私は似たものを感じるのである。
それは彼らのいずれもが「無時間モデル」でものごとを考えているということである。
けれども、それは私の個人的な懸念であって、とりあえず政治的準位においてはあまり緊急性のない論件である。
私は違和感をいだくけれど、彼らそれぞれがその政治的見解をひろくメディアを通じて発信する権利を支持する。
「民衆法廷」の番組はノーカット版で放映されるべきだと思うし、中川もあとから「そんなことは言っていない」などと弱気な弁明などせずにばりばりと強硬発言を続けて、批判を満天下に仰ぐという潔さを示して頂きたいものである。
私たちが「誤り」から学ぶものはしばしば「正解」から学ぶものよりも大きいのである。
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(2005-01-18 11:05)