震災から10年

2005-01-18 mardi

1月17日
震災から 10 年が経った。
月日の経つのは早いものである。
本学でも震災十年の記念礼拝と「震災を語り継ぐ」というイベントが講堂で行われた。
私は震災の一証人として発言の機会を与えていただいた。
人間科学部の山本義和先生、震災当時の施設課長の中井哲夫さん、学院チャプレンだった茂洋先生といった、震災復興事業を先頭で指揮された方々にまじって私のような着任したばかりの三下が何事かをご報告するのは出過ぎたことなのであるが、飯チャプレンのご指名であるから仕方がない。
はじめに山本先生が当時撮影された大学キャンパスの様子を収めたビデオを約30分にわたって拝見する。
震災の5日後から4月27日の入学式までの大学キャンパスの様子がありありと記録されている。
その中に赤い野球帽をかぶって、震災のときにタンスで打ち付けた青あざを顔につくったまま、「せーの」とかけ声をあげて理学館の機材を押している私の姿も登場する。
若いね。
山本先生の映像へのコメントは「頭も口もよく動くウチダ先生は、身体もよく動く人でした」
というものであった。
最後の方には、受験生にチューリップを配る当時の合気道部員や有髪のW部先生の姿などもちらりと見える。
山本先生の次に登壇して、震災当時の学内の様子について断片的な印象を語ることにする。
私の芦屋山手町のマンションは震災で半壊状態となった。
散乱したガラスを片づけたあと、繰り返す余震に脅えて、私とるんちゃんは山手小学校の体育館に避難することになった。
大学にはもちろん電話も繋がらず、私が考えたのは「たぶん、今日は休講だろう」ということだけだった(それくらいに震災の被害の実状は知られていなかったのである)。
翌日、私は愛車GB250を走らせて大学に行った。
途中、夙川のところでコーナーを曲がった瞬間に、道がなくなって貯水池に陥没しているところであやうくコケそうになったが、なんとか 30 分ほどで大学にたどりついた。
そのとき大学に来ていた教職員はまだ十数名というところだったと思う。
私はとりあえず自分の研究室に行って、不眠のオガワくんに手伝ってもらって、床に落ちたパソコンを拾い上げ、書棚からこぼれ落ちた本をもとに戻して、二時間ほどで掃除を終えた。
どうして掃除をしたかというと、「これでゼミができる」と思っていたからである(それくらいに震災で本学がこうむった被害の規模を私は見誤っていたのである)。
そのあと研究室を出て、学内を少し歩き出して、私は愕然とした。
そのとき、私の思考回路のある線が「ぷつん」と断線してしまった。
とりあえず私は崩落しかけたD館に入って、落ちているガラスの破片を拾った。
私はそれからあとの一月ほど、ほとんど風呂にも入らず、着の身着のままに近い状態で、「土方」をしていた。
この期間のことについては、ほとんど断片的な記憶しかない。
この部分的記憶喪失は私なりの自己防衛だったように思う。
たぶん私は「被害の全貌」を知ることを止めたのである。
もしあのとき私が震災によって本学が蒙った被害の全容を認識したら、おそらくその無力感で一歩も動けなくなっていただろう。
被害総額50億、復興に3年半かかる被害に比べると、ガラスの破片を拾うというような作業はほとんど「砂漠の砂の上に手で掬った水を注いで緑化しようとする」努力に等しい。
そのような作業に集中したり、何らかの達成感をもつことのできる人間はいない。
だから、今思い出すと、あの復旧作業の間、山本先生や中井さんに率いられて学内で「土方」をしていた私たちは「ものすごく短期的で、ものすごく限定的な職務」だけに意識を集中していた。
ある研究室のドアがあかないので、それを数人がかりであけるとか、200キロほどの機材が横転しているので、それを起こすとか、そういうアドホックな任務だけに意識を集中し、それが終わると「やあ、やったね」と肩をたたき合って、一服して、お互いの健闘をたたえ合った。
それがほとんど九牛の一毛というような微々たる水準の達成であることが私たちにはわかっていたはずだけれど、そのパーセンテージは忘れて、とりあえず目前の石ころを取り除くことに集中したのである。
そのときに、こんな場当たり的なことをやってもしかたがない、まず全体の被害状況を把握して、優先順位の高いところに人的資源を集中する方法を採ろうと主張した同僚がいた。
まことに正論であると私は思ったけれど、その意見に従う「土方」は一人もいなかった。
そんな相談のために会議を開く暇があったら、目の前の瓦礫を片づけることの方がなんとなく優先順位の高い仕事のように思えたからだ。
その同僚は「ばかばかしくてやってられるか」と憤然と立ち去ってしまった。
その通りである。
「ばかばかしくてやってられないこと」を私たちはやっていたのである。
それを誰かがやらなくては何も始まらない以上、誰かがやらなくてはならない。
同僚たちの中には「土方」仕事のために大学に来るのは大学教員としての契約業務内容に含まれていないからという理由で、大学休校期間を「休業」だと思っていた人もいた。
この人たちは正しい。
土木作業はおっしゃるとおり大学教員の業務内容には含まれていない。
この人たちは交通機関が回復し、大学の瓦礫が片づいた頃にきれいな服を着て教員の仕事をするために現れた。
そして、震災経験から私たちは何を学ぶべきかとか、震災で傷ついた人々の心をどうやって癒したらよいのか、というようなことを教授会でしゃべっていた。
立派なご意見だと思う。
けれど、私はこの方々の言うことをあまりまじめに聞く気にはなれなかった。
それからあとの10年間ずっと、まじめに聞く気が起こらない。
そういう点で私は狭量な人間である。
震災で私はいくつかのことを学んだ。
一つはこのような「マニュアルのない状況」においても、きわめて適切なふるまい方を無意識的にできる人がいるということである。
例えば、山本先生や中井さんや藤原さんや東松さんや山先生や野嵜先生や上野先生や渡部先生…といった方々は、「震災」という言葉を聞くとまずその顔が脳裏に浮かぶほどに復興の場で活躍された同僚であるが、「まずその顔が浮かぶ」ということは、そのとき大学に来て復興事業に携わった人々の中で、私が「ああ、ここに誰か来合わせてくれないかしら…」とまごまごしている局面に、不思議にこの方々が「たまたまその場に居合わせて手を貸してくれる」ということが高い確率で起きたということである。
こういうのはある種の身体的感覚のようなものだと思う。
ときには、全体を俯瞰し、最適解だけを選び続けるスマートネスを断念しないと身体が動かないという局面があること。
どこで、誰が自分を必要としているかを直感する力、頼れる人と頼りにならない人を識別する感受性がこういう状況ではたいへん高くなるということ。
そういったことを私は震災経験から学んだ。
こういうことを「震災経験を語り継ぐ」というようなタイトルでメディアがセッティングする言説環境ではあまり口にする人がいないようなので、ここに記しておくのである。
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