自立とは何か

2005-01-14 vendredi

基礎ゼミ最後の日。
テーマは「自立とは何か?」
まことに毎回本質的なテーマを振ってくださる学生諸君である。
「自立とは何か」
ということについて、私はこれまで何度もいろいろな機会に語ってきた。
ひとことで言えば、それは「自分がどのような依存関係に含まれているかを俯瞰できる知性を持つ」ということである。
奇妙に聞こえるかも知れないが、「自立」を基礎づけるのは、「自立」という個別的な事実を宣言することではなく、「依存」という包括的な関係を意識することなのである。
「自立していない」存在を考えればすぐにわかる。
幼児は自立していないが、それは自分が「何に依存しているか」をことばにすることができないからだ。
幼児的な大人の場合には、自分が「何に依存しているか」をことばにできる場合もある(「家族」とか「会社」とか「教祖さま」とか「イデオロギー」とか)。
しかし、「幼児的な大人」は、何が「自分に依存しているのか」をことばにしようとする習慣がない。
自分がいることで何が「担保」されているのか、自分は他の人が引き受けないどのような「リスク」を取る用意があるのか、自分は余人を以ては代え難いどのような「よきこと」をこの世界にもたらしうるのか、といった問いを自分に向ける習慣がない。
生きている限り、私たちは無数のものに依存し、同時に無数のものに依存されている。その「絡み合い」の様相を適切に意識できている人のことを私たちは「自立している人」と呼ぶのである。
だから、自立している人は周囲の人々から繰り返し助言を求められ、繰り返し決定権を委ねられ、繰り返しその支援を期待される。
「私は自立している」といくら大声で宣言してみても無意味である。
自立というのは自己評価ではなく、他者からの評価のことだからだ。
部屋代を自分で払っても、自力でご飯をつくっても、パンツを自分で洗っても、助言を求められず、決定権を委ねられず、支援を期待されていない人は、その年齢や社会的立場にかかわらず、「こども」である。
別に私が言っているわけではない。
孔子さまだってそうおっしゃっている。
顔淵と子路が孔子に「先生は何が希望ですか」と尋ねたとき、孔子はこう答えた。
「老者安之、朋友信之、少者懐之」(「老者には安んぜられ、朋友には信じられ、少者には懐かしまれん」)(『論語』、公冶長篇)
二人の愛弟子がそれぞれ「自分は…となりたい」という文型で語ったのに対して、孔子だけはひとり「他者にとって…・となりたい」という文型によって語っている。
「私を定義するのは私ではなく他者である」というのなら、孔子とラカンはほとんど同じことを言っていることになる。

基礎ゼミの期末レポートは「35歳の1月7日の日記」。
大学一年生の少女たちに、いまから16,7年後のある一日の日記を書いていただくのである。
それまでの履歴を簡単に「あらすじ」で書いてもらい、その日何をしたのかを想像してもらう。
レポートというよりは、「短編小説」である。
2022年頃の日本社会がどうなっていて、彼女たち自身はどうなっているのか、いささかの想像力を発揮していただこうと思う。
もちろん、レポートに「正解」があるわけではない。
彼女たちが日本の未来とそこにおける自分の位置をどんなふうに想像しているのか、それを知りたい。
興味深い結果が出たら、このHPでご報告いたします。
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