お気楽サラリーマンと「種の延命」について

2005-01-14 vendredi

D館に立ち寄ったら、教務課長から、新年度のオフィスの備品について訊かれた。
あ、そうか。
四月から私は事務棟の中のオフィスに「出勤」する身になるのである。
瞬間的に四月をもって「サラリーマン」となることに決意する。
考えてみると、研究、教育活動「に加えて」、学内行政のもろもろの業務を「雑務」として負担させられる…という発想をするから「過労死寸前の教育研究者」というセルフイメージが浮かんで、それがつらいのであって、発想を転換すればよろしいのである。
自分のことを余暇に「研究、教育」をする「行政」職の人間と考えればいいんじゃないか。
そう考えると、学内管理職というのは「めちゃ暇なサラリーマン」である。
だって、適当な重役出勤だし、会議が多いといったって、せいぜい一日二回だし、書類を読んだり、はんこを押したりというような仕事だって、一日1時間もあれば終わってしまう。
それだけすればお給料がもらえて、あとの時間は「好きなこと」(学生を相手にヨタ話をしたり、オフィスのパソコンを使って有料原稿をこりこり書いたりして副業にいそしんだりすること)をしてよいのである。
なんてお気楽なサラリーマンなのであろう。
世のサラリーマン諸氏が聞けば、怒りの余り憤死されるであろうほどなお気楽稼業なのである。
実際にやっていることは「過労死寸前の大学教員」と「死ぬほど暇なサラリーマン」はまったく同じである。
それを「本務」である研究教育以外に一日数時間の「雑務」が過分に課される立場と考えるか、一日数時間「本務」をしたらあとは好きなだけ「趣味」の研究教育をして「遊んでもいい」身の上と考えるか、マインドセットを切り替えるだけで、「不幸な大学教員」は「幸福なサラリーマン」に転換する。
そう考えたら急に気楽になった。
「じゃあ、ノートパソコン買ってね」と教務課長にお願いする。
あと、液晶テレビとオーディオと冷蔵庫と昼寝用ソファーとコーヒーメーカーと観葉植物と青磁の壺とバカラのグラスとジノリのカップとかもね。
秘書もつけてくんないかな。
運転手も、できたら。

「火中の栗」を拾ったら、三砂先生から「やけど見舞い」メールが来た。
フェミニストからの三砂バッシングはなんだか壮絶な様相を呈してきたらしい。
私のように「アンチ・フェミニスト」を公称していて、どう考えてもフェミニズムにとって不愉快きわまりない人物をフェミニストは放置しているのに、三砂先生のような、女性の社会的地位の向上と女性性の意義の再評価を身を以て実践している人にむかって、フェミニストたちからほとんど感情的な攻撃がなされている。
ある研究会に「騙されて」招かれた三砂先生はそこで数名のフェミニストたちから十字砲火的な罵倒にさらされたそうである。
その顛末を語ったことばの中で、私が印象深かったのは、次の一節である。

「30 代の若いフェミニストの教条的なやり方(5,6人はいたかな、みんな同じことをいうので個体識別できない)に疲れました。
『フェミニズムの本にこう書いてあるから、オニババ本のここはおかしい』という反論ばかりで、彼女たちの声が聞こえないのです。」

どのような政治的主張のものであっても(それが「正しい」政治的主張のものであっても)、私は「教条主義」を好まない。
それは三砂先生が言うとおり教条主義者が「個体識別」できないからである。
私は「個性」「唯一性」というものをたいへんに重んじる人間である。
それは別に理念的な理由からではなく、生物というのは適切な個体差を維持していないと、生存戦略上不利であると、私のDNAが告げるからである。
私がフェミニストに対して一貫して忠告しているのは、「構築主義的奪還論=能力主義的な社会の再編」のスキームでやっていると、最終的にすべての質的な個体差が消失し、ただ「均質なものの間の量的格差」だけが残ることになり、それは私たちのシステムにとって致命的に不利な選択であるということ、ほとんどそれ「だけ」である。
そのことを私は別に父権制や男権主義の立場から申し上げているのではなく、「一個体」として、「人類の延命」を求める立場から申し上げているのである。
しかし、私のこのような主張に対して、フェミニストからなされた唯一のリアクションは「あなたはバカなセクシストなのだから、フェミニストの本をもっと読んで勉強しなさい」というものである。
私が知る限りのフェミニストは「異口同音」にそう私に告げて、悲しげな目をして立ち去って行った(だから、個体識別できない)。
どうして彼女たちとうまく対話の回路がつながらないのか。
それは私の理想とする社会が、「すべての個体がそれぞれ適切に差異化されてエコロジカル・ニッチがばらけた社会」であるのに対して、彼女たちの理想が「全員が同じ目標にむかって邁進し、全員が同じ顔をして、全員が同じことばを唱和する無差異社会」の到来だからかもしれない。
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