『オニババ』論争の火中に栗を拾う

2005-01-11 mardi

成人の日らしい。
TVのニュースでは、新成人たちが酒を飲んで暴れている風景ばかり映る。
でも、これって、メディアがそういう絵を喜んで放映するせいで、あたまの悪い子供たちが、「こういうことをすればTVに映る」と思って、意図的にやっていることなんじゃないかな。
だって現場のカメラマンは「そういう絵」を虎視眈々と狙っているんだから。
そして、日本の子供たちは、メディアの「期待」に応えて、「欲しい絵」を提供することにかけては、ほんとうに訓練が徹底している。
感動的なほど。
西宮戎の「福男」レースについても同じことを感じたけど。

『論座』という雑誌に田中美津さんという人が「徹底批判『オニババ化する女たち』」という論を寄せていると広告があったので、「帯文」を書いた責任もあるので、さっそく買って読んでみる。
批判が生産的であるためには、いろいろな条件が要る。
だが、その条件を満たしているような批判を書く人はあまり(ほとんど)いない。
だから、私はふつう「批判」というものは読まない。私に対してなされている批判は特に読まない。
しかし、今回は、他ならぬ三砂先生が当事者なので読まないわけにはゆかない。
読んで第一に思ったのは、田中美津さんの言っていることと三砂先生の考えは根本的なところでは違わないのではないか、ということだった。
女性の社会的立場に配慮しよう、身体性やエロスの問題をみつめなおそう、ということをこの人も書いている。
私もその意見には賛成である。
そももそも反対される人はどこにもいないだろう。
ということは、「徹底批判」を導く分岐点はそのような明示的な論理の準位にはない、ということである。
おそらくこの問題を語るときの「立ち位置」が、三砂先生と田中美津さんは違うのだろうと私は思った。
三砂先生の核心にあるのは、西宮の同和地区に隣接する場所で小学校時代を送ったときの経験だろうと私は思っている。
少女だった三砂先生は「貧困」と「差別」がもたらすマイナスのエネルギーに対しては市民的な「共感」や「同情」では太刀打ちできないということを思い知ったという話をご本人からうかがったことがある。
悲しみや怒りや屈辱感や恨みといったネガティヴな感情が強烈な大気圧を形成している空間や人間関係というものこの世にはある。
そのような場の圧力に拮抗しようとするときに、同情や共感や憐憫はほとんど無力である。
そのときに、少女だった三砂先生が選んだのは「全力をあげて愉快に生きる」という道だったのではないかと私は想像している。
はじけるような笑い声をもってしかはね返すことのできない種類の暗がりや瘴気というものがある。
私がはじめて三砂先生と会ったときに、「この人とは友だちになれそうだ」と思ったのは、その「何があっても、絶対に愉快に生きる」という強靱な生存戦略に敬意と共感を覚えたからである。
両者の対立点が比較的はっきりしている箇所を一つ引用してみる。

「そりゃ誰だって、女として幸せに生きていきたい。でもその実現はリプロダクティヴのヘルスだけでは難しい。ライツ(権利)の視点が必要なのよ。三砂さんにはそこが決定的に欠けている。
 ライツの視点がないということは、社会性に欠けるということです。だから、若いうちに結婚し、出産し、細々と働きながら子育てをして、四十五歳くらいに社会復帰すればいい、そうすれば『近代産業社会にとっても、非常に貢献できることです』なんて言える。夫ひとりの稼ぎでは生活できない現実や、四十五歳で再就職する困難が、彼女にはわからない。」

三砂先生の思想に「権利の視点がない」という指摘はある意味では正しいと思う。
三砂先生は出産育児を「生む権利」や「生む社会的責務」というような政治的スキームでとらえる限り、出産育児という経験のもっている本質的な豊かさは逸されるだろうということを、ずっと説いてきているからだ。
一方、ここで田中美津さんが言っている「権利」というのは、挙げている事例(「夫の稼ぎ」と「再就職の機会」)から見る限り、「ほんらい自分に帰属すべき(=収奪されている)社会的リソースを奪還すること」という古典的な「奪還論」の枠内にとどまっている。
けれども、奪還論的立場からそのような「権利」(平たく言えば「金」と「地位」のことだ)を優先的に配慮している限り、女はあまり幸福になれないのではないか、ということが三砂先生がくりかえし主張してきたことであり、この本を書かせたいちばん大きな動機ではないのかと私は思う。
それより、いまの引用で私が興味を惹かれたのは「細々と」という副詞と、「四十五歳」という名詞の強烈なコノテーションである。
イデオロギーは比喩のレベルに現れる。
この文章の書き手は「子育て」する女性には「細々とした」労働だけしか許されず、「四十五歳」の女は、社会的にも(エロス的にも)価値がないという臆断をほぼそのままに受け容れている。
彼女が打ち倒すべき社会矛盾は「そこにある」からである。
これまでも何度も書いてきたことだが、戦う人間は、「敵」を必要とする。
その戦う対象がどのような挑戦をも退ける無敵の「悪」であることが戦う人間のモチベーションを高めるからだ。
だから、戦う人間は皮肉なことに、いつしかその「敵」の延命を望むようになる。
奪還論的フェミニズムの立場に立つ論者は、必ず「育児出産は苦役であり、加齢は女の社会的価値を減殺し、市場経済のなかで人々が争奪し合っている財貨やサービスは善きものである」とするドミナントなイデオロギーに、すすんで同意署名してしまう。
これは論理の経済が要請することであって、個々の論者の知性や徳性とはかかわりがない。
誤解してほしくないが、私は奪還論が間違いだと言っているのではない。
そのような論理構成によってしかクリアーできない社会的難局があるということを私は理解できる。
しかし、そのような論理をもってしてはクリアーできない論件もある。
出産や育児や総じてエロスにかかわる諸問題は奪還論にはなじまない。
私はそう思うし、三砂先生もそのことをこれまで主張してきているのだと私は理解している。
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