拡大疑似家族宴会

2005-01-10 lundi

合気道の鏡開き。
まず家のお掃除をしてから、買い出しにでかけて「ぜんざい」を作る。
家で宴会をやることのよい点は、時間や人数を気にせず、美味しいご飯をたべて、美味しいお酒がのめることと、宴会前に掃除をするので、定期的に家がきれいになることである。
困るのは生ゴミと空き瓶が大量に出るので、次のゴミ出しの日にひいひい言うことである。
小豆とこしあんを煮て、ちゃっちゃっと「ぜんざい」を作る。
お餅は新潟のクスミ先輩から、新米コシヒカリのお餅をどっさり頂いたのがある。
あと、納会で食べ残した「パルマの生ハム4キロ」が冷凍してあるので、それを解凍する。
準備オッケー。
二週間ぶりのお稽古である。
今日は浜松のスーさんが寺田さんのお弟子さん三人を連れて遊びに来てくれた。
寺田さんは私の自由が丘道場の兄弟子である北総合気会の山田博信師範のお弟子さんであるから、私にしてみると「姪弟子」にあたる。
スーさんたちはその「姪弟子」のお弟子さんであるが、昇段級審査は山田師範がなされているので、「まわり盃」的に言うと「叔父 - 甥」の関係になる。だから、うちの部員たちとは「従姉弟」同士である。
武道の同門関係というのは「疑似家族」なのである。
30人近い「大家族」が集まって宴会をするということは、現代ではもうほとんどありえないことであるけれども、こういう伝統的な技芸の世界ではちゃんと残っている。そして、そのような集まりをみんなとても大切にしているし、必要としているように私には思われる。
家族の宴会なので、当然話は「Oいちゃん、いくつんなったね」「六ですよ。センセイ、いい人紹介してください」「Uコガくん、君んとこにいい人いないかねえ」「Kギはどうですか」「ああ、彼はいいねえ」・・・というような小津安二郎の『彼岸花』や『秋日和』のような会話が悠然と行われる(文中の人名は実在の人物とは関係ありません)
だいぶお酒が回ってきたところで、早稲田合気道会の伝統芸「アブラハム」の振り付けを去年の九段会館のビアパーティで見覚えたという見取りにすぐれた人々によって「アブラハム」の初公開が行われる。
「アブラハムにーは、七人の子、ひとりはのっぽで、あとはちび」
と歌いながら手足首をばたばたさせるという梶浦さんの至芸である。
これをウッキー、かなぴょん、岸田さん、くー、おいちゃんがくるくるまわりながら演じてくれたので、全員腹を抱えて笑う。
ぜひ今年の五月の九段会館では早稲田とジョイントで女学院の「アブラハム」を披露していただきたいものである。

北海道新聞からさらさら書いたエッセーが掲載された日の新聞を送ってきた。
北海道以外では読んだ人があまりいないだろう。こんなことを書いた。

「時代相2005年」 「失われた教養」は再構築できるか?
 間違えている人が多いけれど、「雑学」と「教養」は違う。いずれも基礎となるのが情報であることに変わりはない。けれども、情報の処理の仕方が「雑学」と「教養」では違う。
「雑学」とは、「どんな知識や情報を所有しているか」が問われる「事実の問題」であり、「教養」とは自分が所有している知識や情報は「どうすれば人の役に立つか」を自らに問う「遂行の問題」だからである。
 今、「学力低下」や「教養崩壊」が私たちの社会の最弱の環であり、それが社会の知的インフラを根本から揺るがしかねない状態になっており、教養の再構築が喫緊の国民的課題であるいう判断に異論のある人はいない。けれども、そのとき「教養の再構築」の処方として諸賢がメディアで提言されているのははたして本当の意味での「教養」なのだろうか。私は懐疑的である。
 日本の教育はひさしく機能的分化を推し進めてきた。それは専門家が自分の専門のことだけに資源を集中するという、ある意味では効率のよい「分業」のことである。俚諺に言う「餅は餅屋」ということだ。
 だが、近年この分業が分業として機能しなくなってきた。
 当たり前のことだが、分業が成り立つのは、部分を担当している人間が全体の中のどのパーツを担当しているか知っているからである。専門家が社会的に有用なのは、自分が何の専門家であるかを非専門家に理解させることができる限りにおいてである。
 「餅屋」が「餅屋」として機能するのは、自分の売っている「餅」がどのような生態系の中で栽培可能となり、どのような農業形式で収穫され、どのような経路で流通し、どのようなレシピで料理され、どのような儀礼的伝統的食材として用いられているかを熟知しているからである。「餅」の材料にも生産様式にも流通経路にも人類学的意味にも興味のない「餅屋」は餅屋としては機能しない。
 だが、いまどきの「餅屋」は餅の分子構成や市場における「パン屋」との競合についてはたいへん詳しいのだが、どうして「餅屋」という専門業態がこの社会に存在し、それが他のどのような人間的活動と連携して、社会機構のうちでどのような機能を担っているのかを言うことにはほとんど興味を示さない。
 何のために警察があるのか、何のために第三セクターがあるのか、何のために病院があるのか、何のために政党があるのか、何のために国営放送があるのか。そういう基本的なことを非専門家に説明することのできない専門家に私たちの時代は事欠かない。
 自分の専門性の社会的意義を非専門家に理解させることができない人間とは要するに「自分自身と自分の隣の人間」しか見ていない人間である。隣の会社、隣の政党、隣の省庁、隣の研究室…との隣接性に基づいてしか自分を位置づけられないこと。私はこのような無知のあり方を「教養がない」と呼ぶのである。
 たしかにこれらの人々は専門にかかわる知識や技術にはたいへんお詳しい。けれども、それは所詮「雑学」にすぎないと私は思う。自分が何を知っており、何が出来るかは言えるが、それらの知識や職能が、それを持たない人々、それを知らない人々にとって「何の役に立つのか」を言うことができない。あるいはその説明責任そのものを感じていないなら、そんな人間には「専門家」を名乗る資格はないと私は思う。
 教養の再構築とは、別に新たに何かの知識や技術を身に付けることではない。そうではなくて、自分の持っている知識や技術が「他の人たち」にとって何の意味をもつのかと自問する習慣を持つこと、ただそれだけのことである。そう問う習慣を持つ人を私は「教養人」と見なしたいと思う。その人がかりに中学生であっても、「中学生がこの社会において担うべき役割は何か? 中学生にしか出来ない仕事とは何か? それは他の人たちにいかなる『善きこと』をもたらしうるのか?」を自問する知性があれば、すでに堂々たる教養人であると私は思う。
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