コミュニケーション論二題

2005-01-08 samedi

大学が始まる。
初日は1年生の基礎ゼミ。
今日のお題は「嫌いな人とのつきあい方」について。
嫌いな人とは付き合わない、というのが私から学生諸君へのアドバイスである。
つねづね申し上げていることだが、そばにいるだけで疲れる人、こちらの生命エネルギーが枯渇してくる人というがたしかに存在する。
そのような人間とも「共に生きる」というのはなかなか立派な心がけであるが、「共に」というのにはかなり解釈の幅があるわけで、必ずしも「べったり一緒に」という意味ではない。適正な距離を置き、できるだけかかわりにならない「共に」というのもだって「あり」だと私は思う。
「鬼神は敬してこれを遠ざく」と孔子先生も教えているとおりである。
おのれの力量をわきまえ、限られたリソースを配分する優先順位をよくよく考え、その中でのベスト・パフォーマンスをどうやって達成するか、それを考えるのが人間の仕事である。
「できないこと」をやろうとしても仕方がない。
「嫌いな人間とつきあう」というのは「できないこと」の一つである。
それを無理矢理やろうとすると、どこかに破綻が生じる。
それほどドラマティックな破綻ではない。
「嫌いな人間」を我慢して、「この人にもそれなりにいいところがあるんだ」とか、「嫌いな人間を我慢して受け容れることが人間の度量なんだ」とか自分に言い聞かせ続けていると、「何かを嫌う」という感受性の回路が機能を停止する。
だって、我慢している状態を「我慢している」と絶えず主題的に意識していたら、つらくて心身が持たないからだ。
これは我慢ではない。私は平気だ。私は何も感じない。
そうやって自分自身を騙すことなしには、我慢は続かない。
だが、恐怖と嫌悪は生物の生存戦略上の利器である。
「嫌う」回路をオフにするということは、コミュニケーション感受性をオフにするということであり、それは思っている以上にリスキーな選択である。
環境から発信される無数のシグナルのうちから「恐れるべきもの」「厭うべきもの」をいちはやく感知することで、生物は生き延びているからである。
その回路をみずから進んで機能停止にするということは、リスクにたいするセンサーを「捨てる」ということであり、生物学的には「自殺」に等しい。
「我慢する人」は、日々のコミュニケーションの中で行き来する非言語的シグナルの多くを受信できなくなる。
「こんにちは」という挨拶ひとつでも、それが儀礼的なものなのか、愛情や敬意のこもったものなのか、憎悪を蔵したものなのか…それを表情や速度や発声や姿勢から見分けることができなくなる。
「話の通じないやつ」「場の読めないやつ」というのは、要するにコミュニケーション感度の低い人間ということなのである。
コミュニケーション感度は生得的なものではない。
人は「イヤな仕事、嫌いな人間、不快な空間」を「我慢する」ために、みずから感度を下げるのである。
だから、「嫌いな人」と付き合ってはいけない。
じゃあ、好きな人とばかり付き合えばいいのか、気の合う人間とだけつるんでいればいいのか、そんな手抜きな生き方をしていて、人間的成長や他者への共感や想像力は育つのか…といきりたつ方がいるかもしれない。
それは短見というものである。
「気の合う人間」なんて存在しない。
「好きな人」なんて幻想でしかない。
これもまたあなたの生物学的なコミュニケーション感受性が選別している「コミュニケーション資源を優先配分した場合、リターンが比較的確実であると見込まれる個体」というにすぎない。
感度の悪いラジオで地球の裏側の短波放送を拾おうとしても無理である。
そんなことに四苦八苦するくらいなら、きちんと受信できる近場の情報に耳を傾けて、そこから世界の成り立ちと、自分の立ち位置を測定する方が賢明である。
そして人間は、機械と違って、適切な送受信を繰り返すうちに、感度も出力も上がる「自己組織化するラジオ」なのである。
若者たちは、まずクリアカットでロジカルで音楽的なメッセージを聴き取ることから始める。
ノイズを解析するのは、その次の、もっと大人になってからの仕事である。

午後、研究室に英文の新任のK先生をお迎えして第三者委員として面接をする。
人事教授会では専門委員が候補者の業績を紹介し、もう一人他学科の教員が第三者委員が候補者の人格についてコメントするのであることになっている。
私はこの第三者委員をよく頼まれる。
たぶん初対面の人ともすぐうち解けて、おしゃべりが苦にならない、という性格を見破られているのであろう。
K先生は翻訳・通訳プログラムの中心メンバーのひとりとしての採用予定である。
アメリカと日本で、翻訳会社をやっていたこともあるというので、それなら私のご同業である。話の接ぎ穂に困ることはない。
さっそく日米翻訳事情から始まって、英語教育の問題、カリキュラムのこと、女学院生の語学力、現代アメリカ新語事情など、興味深い話をたくさんうかがう。
30分ほどのつもりだったが、あまりにお話が面白いので、1時間以上あれこれうかがってしまった。
K先生はアカデミックな教育研究経験とビジネスの経験と両方バランスよく持っておられて、こういう先生はレアである。
だから、話が矛盾する。
変な話だが、「現場にいる」人の話は必ずどこかで矛盾をきたすのである。
それは現場そのものが矛盾しているから当たり前のことなのである。
話がすっきりしている人間というのは、現実と離れたところで理屈をこねまわしている人間である。
K先生の話はふたつの点で印象深い矛盾を語っていた。
一つは英語の変化ということ。
英語はたいへんな勢いで変化している。アメリカ英語もどんどん変っているし、イギリス英語、オーストラリア英語、アジア英語との乖離も深まりつつある。
その変化は変化として受け容れなければならない。
しかし、「標準的な英語」というものもまた存在しなければならない。
これはある種の幻想的な消失点である。
けれども、標準的な英語、誰が聞いてもロジカルに理解でき、誰が聞いてもそのアクセントやイントネーションに不快感を覚えないような「中立的英語」というものがありうるという信念がなければ、英語教育はたぶん成立しない。
もうひとつの矛盾は表現の適切性ということ。
学生にスピーチをさせると、いちばん印象的なのは「敬語」が使えないということだそうである。
パブリックスピーチの場合は、英語でするときも冒頭には「本日はこのような場で意見を発表する機会を与えて頂きましてありがとうございます。しばらくお耳を拝借して、私見の一端を述べさせて頂きます」というような定型的な挨拶をする。当然のことである。
だが、K先生のスピーチクラスで去年一年間、スピーチの冒頭で「挨拶」をした学生は一人もいなかったそうである。
would could should といった助動詞を使った「あいまいな表現」ももちろんできない。
「英語というのはきっぱりと言いたいことを言い切る言語である」ということをおそらく幼児期から教え込まれていて、「英語話者も人間である」ということを教え忘れたことの結果なのであろう。
コミュニケーションというのは、語り手が「言いたいことを言う」ためのものではない。
メッセージを送った聴き手に「何かのリアクションを起こさせる」ためのものである。
言いたいことをきっぱり言ったせいでことが紛糾するということがあるし、あいまいにぼかしたせいで、話が前に進むということもある。
問題はコミュニケーションに投じる資源のコストパフォーマンスである。
「敬語」はコミュニケーションのコストパフォーマンスを飛躍的に向上させる利器である。
だが、そのことを学校の英語教育では教えない。
言いたいことをきっぱり言い切らないことによって、してほしいことをしてもらう。
そんなことは大人の世界では当たり前のことだが、教育プログラムとしてこれを具体化するとなると、ほとんど不可能なのである。
K先生のお話はとてもリアルで、そして矛盾していた。
ああ、この人は「現場の人」なんだ、生身の人間を相手にしている人なんだということが私は深く腑に落ちたのである。
奇妙にきこえるかもしれないが、すっきりした命題からよりも、「言っていることが矛盾している人の言葉」からの方が私たちは多くのことを学ぶことができるのである。
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