多田先生のお年賀に伺い、ヴァーチャル耳順に列せらる

2005-01-04 mardi

恒例の多田先生宅へのお年賀。
能州紬の着物に仙台平の袴、それに「高利貸しコート」と守さんから頂いた雪駄をつっかけて、巾着袋を提げてちゃらりちゃらりと吉祥寺へ出かける。
駅で工藤君ご夫妻(工藤くんは暮れの18日に入籍されたそうである。おめでとう)、のぶちゃんかなぴょんの内古閑君ご夫妻にばったり。
ドクター佐藤と待ち合わせて、シャンペンをお土産に駅から3分ほどの先生宅へ。すでに玄関は足の踏み場もないほどの靴。
今日は東大気錬会の諸君が年賀に来ているのである。
乾杯にご唱和してから、年の功で食堂の「幹部席」の「多田先生のとなり」の特等席をゲットして、そこに腰を据える。
さっそく工藤君はじめヒロタカ君、ヤマキョー君、高谷さんら気錬会幹部の諸兄諸姉を相手に、多田先生のお手になる「きんとん」「数の子」などを食しつつ、ワインをかぱかぱ酌み交わしつつ歓談。

多田先生とかなぴょん ひろたか君くどう君やまきょー君

多田先生はご自慢の「天狗舞どぼどぼ鶏のお雑煮」を作り終えるまでは台所からなかなか出てこられない。
先生お手製の「天どぼ雑煮」を頂くと「ああ、これで一年が始まる」としみじみ実感するのである。
坪井先輩が来られたので、台所から戻られた先生を囲んで、昔話をいろいろする。
月窓寺道場の最古参であった青木増盛さんが二日に亡くなったという話を聞く。
青木さんは定年退職後に合気道を始められたのだが、その温厚篤実な人柄でひさしく月窓寺道場の門人のまとめ役を担ってこられた多田塾の柱石のお一人である。
私もずいぶんご恩を蒙った。手にビール瓶を持ってにこにこ笑いながら近づいてきて、「やあやあウチダさん飲んでますか」と肩を叩く青木さんの優しい表情を思い出す。
先年の樋浦直久先輩に続いてが今度また青木さんが亡くなった。
寂しいものである。
それから先生の故地である対島の話になり、多田先生の対島の旧宅の裏が半井桃水の家で、桃水に幕末の多田家のことを描いた小説があるという話を聞いてびっくり。ちょうど、前の晩に高橋源一郎さんの明治文学史の原稿の樋口一葉と半井桃水のところを読んだところだったからである。
多田先生の祖先に多田監物という武将がいて、十五六歳のときに太閤秀吉の朝鮮出兵に参戦した。よほど剛胆な若武者だったらしく、敵の射た矢が右目に突き刺さったとき、家来が矢を抜こうとして、横になった監物の額に足を載せたのを「無礼もの」といって放り出し、眼球に矢を刺したまま騎乗して、自分を射た敵兵を追いかけ、槍で突き殺した。その胆力を秀吉が嘉して、轡を下賜した。その五三の桐の紋所の入った轡を先生に見せて頂く。
明珍の兜ともども多田家家伝の逸品の一つだそうである。
というような話から始まって、昭和のはじめの自由が丘の田園のたたずまいや昭和20年5月の自由が丘空襲のときの惨状など、多田先生の少年時代の興味深いお話をいろいろと伺う。
こういう話を伺う機会はお年賀のときくらいしかないので、一同耳をダンボにして聞き入る。
私はご存じの通り「徹子の部屋」的聞き上手であるので、「ほう、それは3月10日の東京大空襲のあとのことですか」とか「戦後、南風座という映画館ができましたね」とか「石井漠がおりましたね、あのあたりに」というような合いの手を入れる。
先生がふと不思議な顔をされておっしゃるには
「ウチダくん、戦中生まれだっけ?」
先生、ちがいます。
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