性的マイノリティと松下くんちのお年賀

2005-01-03 lundi

昼近くまで爆睡。
のそのそ起き出して、K田くんから来た修論をチェック。
さすがに長い。ネタがウチダの苦手な「ジェンダー論」なので、途中でへこたれそうになる。
「ジェンダー」というのは「記号」であると私は考えている。
実定的な内容がなくて、差異だけが機能するという記号の定義に従えば、まちがいなくジェンダーは記号である。
ほかの言語記号との違いは、言語記号が理論的には無限に増殖できるのに対して、ジェンダー記号は「男」「女」という両極が決まっていて、あとはそれを「内側に」細かく切り分けるしかないということである。
色彩名称は無限に存在しうるが、「緑」と「黄色」が両極に決められている場合は、「黄緑」「緑っぽい黄緑」「黄緑っぽい緑」「黄緑っぽい黄色」「黄色っぽい黄緑」・・・などというまぎらわしい中間的な項を作り出すしかない。
別に、中間的な分類があることは少しもとがめ立てすることではないが、そのときに、「黄緑っぽい黄色」と「黄色っぽい黄緑」の差異を主題的に論ぜよというようなことを言われても困る。
ジェンダー論についても、それと同種の「めんどくささ」を感じてしまう。
性分類には、いろいろなものある。
「男性ジェンダーに同一化しているヘテロセクシュアルの男性」「男性ジェンダーに同一化しているホモセクシュアルの男性」「女性ジェンダーに同一化しているホモセクシュアルの男性」「女性ジェンダーに同一化しているヘテロセクシュアルの男性」「女性ジェンダーに同一化しているヘテロセクシュアルの女性」「男性ジェンダーに同一化しているホモセクシュアルの女性」「女性ジェンダーに同一化しているホモセクシュアルの女性」「男女以外のものにヘテロセクシュアル的に固着している男女」「男女以外のものにホモセクシュアル的に固着している男女」などなどまことに多様な形態がありうる。
人間というのは、あらゆるものに多形倒錯的にエロスを備給できるのである。
たいしたものだ、と私は思う。
それ以上の感想はとくにないし、そのそれぞれの微細な差異について論じるのもなんだか気が進まない。
しかし、この問題には政治的次元もある。
性的マイノリティには現在もなおいろいろと社会的抑圧や差別がある。
ジェンダー論者の中にはこのような性的マイノリティに対する社会的な差別や抑圧を解除し、性的平等を達成することを政治的目的に掲げている方々もおられる。
性的マイノリティと性的マジョリティの違いは一点しかない。
それは再生産するかしないか、それだけのことである(「男性ジェンダーに同一化したヘテロセクシュアルの女性」と「女性ジェンダーに同一化したヘテロセクシュアルの男性」というかなりレアな組み合わせの場合は再生産もありえないことではないが)。
だから、再生産についての要請が大きい社会では性的マイノリティはつよく意識されるだろうし、再生産についての要請の少ない社会では性的マイノリティはあまり意識されないだろう。
古代の中東の荒野で「オナン」が罰されたのは、その社会では「子ども」がある種の稀少財として観念されていたからである。
現代の日本は再生産についての要請の少ない社会である。
政府は「子どもを産んでくれ」と女性に懇願しているが、これは年金とか税収とか消費市場が破綻してしまうからという散文的な事情のためであって、別に「子どもは国の宝である」と思っているからではない。
だから、エンゼルプランとか男女共同参画社会とかいう政府の発想はすべて「出産は苦痛で、育児は苦役だ」ということを前提にした上で、その苦しみをどのようにして均等に分散するかということを提言している。
子どもをもつことが政府から民衆まで総じて「苦しみ」として観念されている社会は「再生産の要請が少ない社会」である。
私はそう考える。
そのような社会では当然ながら、性的マイノリティに対する社会的抑圧は緩和されるだろう。
しかし、たとえば、『ドーン・オブ・ザ・リビング・デッド』のラストではないが、人類消滅のカタストロフのあと、最後に残された数名の男女が、無人島から人類の再建を試みようという場合に、その中にホモセクシュアルの方が多いことはあまり歓迎すべき事態ではないはずである。
再生産に人々が副次的な関心しかもたない社会は性的マイノリティに対して寛容だろうし、再生産が喫緊の重要性をもっている社会では、それほど寛容ではないだろう。
日本はいま性的マイノリティに対してしだいに寛容な社会になりつつあるように私には思われる。
それは日本人たちが再生産に興味を失いつつあること、言い換えれば「いまのような日本社会」をこの先も続けて行くことに意欲を失っていることのひとつの表現だろうと思う。

修論を読み終わったので、外にでかける。
ご近所に松下正己くんがお住まいなので、ときどき思いついたように彼の家にお年賀にでかける。
松下くんとは中学二年生のときからの友だちであり、古さでいうと平川くんに次いで二番目。
「平川克美、松下正己、山本浩二、石川茂樹」が私のオーバー40年フレンズである。
平川君は私の小学校の同級生、松下くんと山本画伯と私はSFFC仲間、石川君は平川君の中学の同級である。
松下くんはいまでいうところの「ひきこもり」系元祖「ゴシック」少年であり、ナチスと黒魔術が好きなほんとうに「くらーい」中学生だった。
私がはじめて松下くんの家に遊びに行ったとき、松下くんの両親にすごく歓迎された。
帰り際に松下君のご母堂が私の顔をまじまじとみつめて、「正己とずっとお友だちでいてくださいね。あの子が友だちを家につれてきたの、ウチダさんがはじめてなんです・・・」と教えてくれた。
私は「はい」と元気よく返事をした。
爾来、松下くんのご母堂とお約束を守って40数年になるのである。
松下くんと会うと相変わらず絵の話と映画の話でげらげら笑っている。
四十年前とほとんど変わらない。
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