中日新聞のインタビューのテープ起こしの草稿が送られてきたので、少し直しを入れる。
このインタビューは1月の中日新聞・東京新聞に掲載されるそうだけれど、HP読者の中にはお読みになれない方もおられるであろうから、一部を抜粋してご紹介しておく。
現代人は「未来は今よりよくなるはずだ」という根拠のない進歩史観に骨がらみになっています。
だから、未来が今よりよくなりそうもないとなると、世界をとらえる枠組みそのものが解体して、判断不能になってしまう。
逆に、世の中はどんどん悪くなっているというフェミニストやエコロジストに多い反進歩思想も発想の根は同じです。
彼らもまた歴史は「鉄の法則性」が貫いていて、直線的に推移しているはずだから、その法則さえ発見したら全てが予見可能だと信じている。
こうした考え方は百五十年にわたってマルクス主義によって涵養されたものです。「後世の歴史が私の主張の正しかったことを証明するだろう」ということばづかいをする人は、極右であれ保守であれ、それと気づかずにマルクス的な歴史主義の信仰告白をしているんです。
冷戦後、マルクス主義が政治思想として力を失った後も、「歴史の審級」が最後に判断を下すという歴史の審判力に対する信仰は無傷のまま残っています。
なぜ「時間的に後から来たもの」が「前からあったもの」より「よりよきもの」であるとそれほど素朴に信じることができるのか。改まって問われたら、答えられないのに、依然として「…はもう古い」という言い方に審判力があると人々は信じています。
「グランドセオリーの時代は終わった」とか言ってる人間は「…の時代が終わった」という言い方そのものが「歴史主義というグランドセオリー」の内部でしか通用しない言説であることに気づいていない。
こんなふうに歴史主義の亡霊がいまだに徘徊しているのは、マルクス主義が構築してきた世界観・人間観のうち、どれが汎用性の高い知的資産であり、どれが賞味期限の切れた理説であるのかをていねいに検証しないまま、丸ごと「歴史のゴミ箱」に捨ててしまったためです。
どんな社会理論にも「賞味期限」があります。使い勝手が悪くなるときがくる。それはそういうものだから、仕方がないんです。
賞味期限がきたら「長いことありがとうございました」と手を合わせて拝んで、きちんと片づければいいんです。
それを「もう古い」と言って、これまで、その理論からどれほどの恩恵をこうむってきたかを忘れて、まるで生ゴミのように、汚らしいものでも触れるように廃棄しようとするから「思想が祟る」んです。
「思想が祟る」ということはあります。現に祟っているじゃないですか。
だから、どんなイデオロギーであれ、宗教であれ、物語であれ、もっと敬意をもって接すべきだと私はつねづね申し上げているんです。
というような内容のものである。少し書き加えたいことがあるので、それを以下に付け加えておく。
「新しい理論」に飛びついて、それがすべての説明してくれるマスターキーのような道具だと思い込んでいる人は、実は未来の「未知性」を直視できないだけである。
未来が怖いのである。
だから、未来を現在に繰り込んでしまおうとする。
そんなことできるはずないのに。
説明できないことが起きることを「怖い」と感じる知性の構造そのものがここでは問題になっている。
「説明できないこと」がたえず私たちを不意打ちにする。
そういうものなんだから、驚くほどのことではない。
不意打ちにされたときに、慌てて「こんなことはありえない」と言って逃げ出すのも、「これこそありうべき決定的事況である」として「歴史の審判力」に拝跪するのも、どちらも「未来を怖がっている」点については変らない。
「恐れず」は人倫の基本である。生存戦略の基本である。
むかしからずっと基本だったし、これからも基本である。
氷雨が降っているのでベランダの大掃除は中止。
冷蔵庫の掃除に切り替える。
賞味期限の切れた食品をどんどん捨てると冷蔵庫の中ががらんとする。
どういうわけかやたらにチョコレートがたくさんある。
仕方がないので、掃除をしながらこりこり囓る。
三宅先生のところに行って、今年最後の治療を受けて、一年のお礼を申し上げる。
ジョニー・ウォーカーの青ラベルと、池上先生からことづかったという「尺八入門ビデオ」をいただく。
さすが池上先生。追求の手は少しもゆるむことがないのである。
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(2004-12-29 13:48)