トートロジーとケリュグマ

2004-12-22 mercredi

一日がりがりと時間論の原稿を書いている。
直接的には 24 日の朝カルの仕込みなのであるが、「レヴィナス『時間と他者』の読解」は「レヴィナス三部作」の掉尾を飾る第三部『クロノキネジア』(仮題)のメインテーマなので、実は大ネタなのである。
アナグラムの話は前回で一応片づいたので、こんどは脳の話、認知の話、論理形式の話など、理科系の話に入る。
私はもともと徹底的に文科系の人なのであるが、歳と共に次第に理科系の人の書くものの方が面白く感じられるようになってきた。
最初に「来た」のは、カール・ポパー。『開かれた社会とその敵』や『推測と反駁』を読んだのは 80 年代に入ったころのことである。歴史主義の論理形式とそれに対抗する情緒的な言語しか知らなかった私にとって、「反証可能性」ということばは鮮烈な印象を残した。
次の「がつん」はグレゴリー・ベイトソンの Mind and Nature。これとSteps to an ecology of mind は 80 年代の私の「座右の書」だった。
世界の成り立ちについてほんとうに大切な命題は every school boy knows であるということ、そしてそれは中学生にもわかることばで述定可能であるというベイトソンの確信に私は深い影響を受けた。
「論理的な真理性とはトートロジーである」ということが腑に落ちたのはこの頃である。

「私たちの視野は、その外側には何もないというまさにそのゆえに、私たちにとって、視覚的な境界をもっていない。同じく、私たちの論理的世界も、私たちの論理がその外側にあるものは何も知らない以上、なんら論理的な境界をもたない。私たちが考えることができないものを、私たちは考えることができない。それゆえ、私たちが考えることができないものを私たちは語ることができない。」

これはウィトゲンシュタインの『論理哲学論』にバートランド・ラッセルが寄せた序文の一文であるが、こういうことばが歳と共に「そうだよなー、真理ってトートロジーなんだよな」と身に浸みてきたのである。
しかし、「私たちが考えることができないもの」「私たちが語ることができないもの」の「極限」とか「境界」という言い方をする言うとき、私たちは空間的な表象を用いることからはまぬかれない。
というか、論理形式の適法性について語る限り、ひとは空間的表象以外に用いることができないのである。
私はここに「血路」を見出せそうな気がする。
「トートロジー」というのは、実は空間的表象形式の別名ではないのか?
つまり、空間的ではない表象形式があれば、それは「トートロジー」(レヴィナスのことばを借りて「同一性の哲学」と称してもよい)からの脱出の方位を示してくれるのではないか…
というような大それたことを考えたのである。
空間的ではない表象形式とはもちろん「時間」のことである。
私たちは通常、時間を空間的表象によって記述する。
頭の中に「時計の絵」を描いて、例えば「12時から3時までは3時間」というふうに、時計の針が90度進むアニメーションを空間的に表象して、「時間を把持した」気になっている。
だが、このとき時計の針を見ている「視線」は誰のものなのか?
それはどこに「ある」のか?
それが時間軸上の「どこか」に定位され、その特権的視座からは「時間が一望俯瞰される」ということが前提されてはじめて、「針がカチカチと動いてゆくアニメーション」は想像可能となる。
つまり私たちが考想する時間概念はそのつどすでに空間的表象によって「汚染」されているのである。
この時間概念の根源的未知性を毀損することなく、つまり空間的表象に依存することなく、どのように記述することができるか?
これがレヴィナスの時間論の基本的な問いではなかったか、というふうに私は考えるのである。
レヴィナスはこう書いている。

「主体がもはや何かを捉えるいかなる可能性も持つことのない、そのような死という状況から、他者と共にある実存のものひとつの特徴を引き出すことも可能である。どうやっても捉えられないもの、それは未来である。未来の外在性は、未来がまったく不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。(…) ベルクソンからサルトルに至るまであらゆる理論によって、時間の本質として広く認められてきた、未来の先取り、未来の投映は、未来というかたちをとった現在にすぎず、真正の未来ではない。未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捉えるものなのである。未来とは他者なのだ。」(原田佳彦訳、『時間と他者』、67頁)

おおお、老師のおことばはいつ聞いても、寒気がするほどかっこいいなあ。
「未来とは他者なのだ」
私はこの決めの台詞が何を意味するのか、この本を20年前にはじめて読んだときにはまったく理解できなかった。
しかし、いまはおぼろげにわかってきた。
あ、そうか。
そうなんだ。
時間性とは他者性の別名だったのである。
時間を空間的論理形式によって表象することはできない。
それをあえて表象しようとするなら、言語の形式そのものを解体し改鋳しなければならないだろう。
だが、それはどのような言語でありうるか。
私たちの貧しい想像力は「空間的表象性をまぬがれた特権的言語」をさしあたり一つしか思いつくことができない。
それは「預言」、あるいは「諸言語に先行したすでに語られたこと」としての「ケリュグマ(宣告)」(kérygma) である。
おっと、こんなところで朝カルのネタを全部ばらしてしまっては、話すことがなくなってしまう。あとは当日のお楽しみに…でも、こんな話、おもしろがって聞いてくれる人、果たしているのかなあ。
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