歯はたいせつに

2004-12-23 jeudi

朝からばたばたと朝カルの仕込みをしている。
こういう講演の仕込みというのは、ある意味「エンドレス」である。
講演草稿が出来上がって、はい一丁上がり、というふうにはならない。
草稿なんか読み上げても、面白くも何ともないからである。
せっかく「場」というものが設定されているわけだから、その「場」にいって思いついた話をしないと、行く意味がない。
「口から出任せ」とはいうものの、ある種の「出任せの噴出力」のようなものが担保されていないと、うまくはゆかないものなのである。
その「噴出力」をため込むために、ごりごりと仕込みをしている。
1時間半の講演のために数十時間の仕込みをする。
そのネタのほとんどは使われないで終わる。
使われないけれど、その仕込みがないと、「その場で思いつく」ということが起こらない。
たいへんコスト・パフォーマンスの悪い仕事なのである。
というわけで、朝カルの講演もこれを限りにおしまい。
ばりばりとフッサールを読んでいるところにドクターから電話があって、いっしょに湊川神社に神戸能楽協会の「歳末たすけあい能」を見に行く。
ドクターは有料公演を見るのはこれがはじめてだそうである。
来年からは下川正謡会の同門になるので、チケットをプレゼント。
能『放下僧』と『大江山』。狂言『仏師』。独鼓『笠之段』。
下川先生は独鼓で小鼓の高橋奈王子さんと共演。
高橋さんは私の神戸女学院大学赴任一年目の教え子である。
その年、私は仏文学講義で満を持してアルベール・カミュ論を講じた。
私がカミュの深遠なる思想について夜を日に継いで準備した稠密なる講義ノートを読み上げ、ふと目を上げると最前列では「不眠日記」の小川さんと高橋さんが並んで爆睡していたものである。
合気道部の創設メンバーであり、最初に初段をとった学生さんたちのうちの一人であるが、あれから十余年、いまでは大倉流小鼓方の期待の若手として縦横のご活躍なのである。
終演後、ソッコーで帰宅して、哲学者の植村恒一郎さんから頂いた『時間の本性』(勁草書房)というその名もずばりの本を取り出して読む。
植村さんとは大学入ったばかりの頃、駒場の学生会館でよく一緒におしゃべりをしたことがある。
彼とは党派が違っていて、党派同士はめちゃめちゃ仲が悪かった。
私は当時も今と同じく、その人が掲げている社会理論と人間的資質のあいだには有意な関係はないという基本的姿勢を貫いていたので、植村さんとは仲良しだったのであるが、だんだんそうも言っていられない状況となり、「困ったもんだよね」と学館の屋上から夕日をみながら嘆いたことを思い出す。
それから30年以上経ってから、たまたまこのHP日記を読んだ植村さんから「ぼくのこと覚えてますか?」という手紙とともに、この本を送って頂いたのである。
植村さんは大森荘蔵の学統につらなる正統派の哲学者であり、その時間論はウチダのようなお気楽な「寝ながら学べる」学派にはいささか歯ごたえがありすぎて、歯が欠けそうだけれど、これもまたレヴィナスの時間論を仕上げるためには避けて通ることのできない宿題のひとつである。
では、読んでみるか。
がりっ。う…ぼろっ(歯が欠ける音)。
う、うへむはくん、こ、これ、むすかひいね。
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