車は天下のまわりもの

2004-12-19 dimanche

朝早く本願寺出版社のフジモトさんから携帯にメールがあって、毎日新聞の朝刊の「2004 年この三冊」という企画で、養老孟司先生が『他者と死者』を挙げてくださったと書いてある。さっそく目やにを指ではじき飛ばしながら、小走りにセブンイレブンまで行って、毎日新聞を購入。モスバに入って、チーズバーガーとコーヒーの朝ご飯を食べながら新聞を拡げる。
おお、あった。
養老先生が選んだのは佐野洋子さんの『神も仏もありませぬ』(筑摩書房)と加藤典洋さんの『小説の未来』(朝日新聞社)。
養老先生のコメントが泣ける。

「なにげない生活の描写が心をひきつけてやまない。何も特別なことは書いてない。歳をとるとこういう本がしみじみよくなる。これが真のリアリズムであろう。佐野さんの本である。次の二冊は、本を読むのはこういうことだ、という本である。加藤さんのほうは日本の小説をこう読む、内田さんの本は難しいといわれる本はこう読む、というもの。他人の本について書かれたのに両書ともそれ自体が読ませる本である。現代の小説家は加藤さんの本という幸福を得た。内田さんの本は他者を語って感動を与える。」

ウチダは粗忽ものなので、「なにげない生活の描写が心をひきつけてやまない。何も特別なことは書いてない。歳をとるとこういう本がしみじみよくなる。これが真のリアリズムであろう」という部分を最初、養老先生が挙げた三冊に共通の評言だと思ってしまった。
でも、この誤読は却って正解であるかもしれない。
養老先生は「真のリアリスト」である。
そして、真のリアリストはいわゆる「リアル」といわゆる「ファンタジー」のあわいが「リアリティ」のすみかであることを知っている。
私が『他者と死者』という本に書き連ねたのは私の「ファンタジー」である。
でも、この「ファンタジー」は長い歳月をかけて私の中に根を張ったものであり、私という生身の人間はこの「ファンタジー」をビルトインしたかたちでしかもう成り立たない。
この本で私は「他者」について書いたのだが、私の「他者」は哲学的な概念ではなく、レヴィナス老師であり、多田先生であり、亡き父であり、東京で元気に遊んでいるるんちゃんである。この方たちとのかかわりは私にとって「リアルなファンタジー」なのである。
レヴィナス老師の書物を読むことも、多田先生の下で修業することも、父の位牌に(釈先生からもらった)お香を焚くことも、るんちゃんにクリスマスのおこづかいを送金することも、「なにげない生活」の一断片である。にもかかわらずそれは死や時間や暴力や愛について考えるときに、私が参照できるもっともたしかな経験なのである。

大学に忘れ物をして取りに行った帰りに芦屋の Hattori Motors の前を通ったので、思い立って車を止めてショールームを訪ねる。
何台か車を見せて頂いて、営業マンにスペックのご説明を受ける。
ふんふんなるほど、525はちょっとでかすぎるな…じゃこの320iのMスポーツ・パッケージつうのがいいな、2200六気筒で、おまけにシャコタンじゃん。
「じゃ、これ下さい」というと営業マンが訝しげな顔をする。
「は?」
だから、「これください」って言ってるんですけど。
「あの…お買いになるんですか?」
八百屋に行って「キャベツください」って言ったときに「あの…お買いになるんですか?」と訊かれることはない。
どうして車屋さんはびっくりするのであろう。
だって、ここうちから一番近いBMWのディーラーさんでしょ。
今のインプレッサを買うときも、いちばん近いスバルのディーラーに行って、「あのー、インプレッサWRXワゴンください」と言ったらやはり怪訝な顔をされた。
ふつうの人は何軒かディーラーを廻って、競合車の見積書を集めて、その上で値引き交渉などをされて自動車を購入されるらしい。
どうしてそんな七面倒なことをするのか、私にはよくわからない。
そのときは黒のインプレッサを買うつもりで行ったら、黒は在庫がないという。
じゃ、おたくにあるやつでいいですと言って、シルバーのインプレッサを買った。
そういうのは「ご縁」と言って、そのときあるものを買うのが「天の配剤」というものである。
おかげで店頭にあるのを「これちょうだい」と買ったインプレッサWRXは七年間何のトラブルもなく、つねに最高のパフォーマンスを提供してくれた。
そういうものである。
愛車インプレッサは京都の小林家で余生を送ることになっている。
それまでのあと一二ヶ月がこの歴史的名車と過ごす最後の日々となる。
ほんとにいい車だった。
その前に乗っていたオースチン・ミニは関学の学生さんに受け取ってもらった。
そろそろインプレッサに乗り換えようかなと思っていたときに、たまたまいあわせた彼が、「あ、ウチダさんのミニ、かっこいいですね。僕大好きなんです、ミニ」とつぶやいてボンネットをなでなでしてくれたので、「じゃあ、君が乗って」と言って、そのまま差し上げてしまった。
愛してくれる人に運転してもらうのが車にとっての幸福だと私は思う(現に、そのあとミニは私が乗っているときよりも数倍ぴかぴかに磨き上げられて、とても幸福そうだった)。
私は車を愛しているので、下取りに出して見知らぬ人のものになるより、その車を愛してくれる人に乗って欲しい。
というわけなので、あと数年後にたまたま居合わせて「あ、これ320iじゃないですか。シリーズ最終モデルですよね。これ、ぼく大好きだったんです…」とつぶやいた方はその愛が報われる可能性が高いのである。
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