今日は大学クリスマスなので、時間割がいつもと違う。
そういうことは、執拗に確認していただかないと、私のようにほとんど白昼夢を見ているような状態で人生を送っている人間にはなかなか周知徹底されないのである。
いつもの時間割の時刻に教室に行くと、すでに1時間遅刻であったことが判明する。
しかし、基礎ゼミの諸君は不満も言わず、黙って『進化する教養教育』に私が寄稿した「教養なんかなくてもいいもん症候群」を熟読玩味せられていた。
ふつうは教師が1時間も来ないと、教室から大脱走してしまうものであるが、基礎ゼミはいつも白熱した議論が展開するので、みんなそれを楽しみに律儀に待っていてくれたのである。
ありがとね。
研究室に戻って、かたっぱしから仕事を片づける。
メールを開くと、この間、私がコミットしていた学内某重大事件はマルクスレーニン主義極楽派を率いるワルモノ先生ならびに大学教職員組合の輝ける委員長イーダ先生の大活躍により、我が陣営の事実上の勝利のうちに幕を閉じることになったとの報が届く。
原告団のひとりとして裁判闘争に臨む決意であったが、その必要もなくなったのである。
不退転の決意をもってともに戦列を構築してきた同志諸君ならびに鋭意周旋にご尽力下さった教職員のみなさんに心からお礼を申し上げたい。
これを奇貨として学内における意思疎通の道が確保され、風通しのよい大学運営のシステムが立ち上がることを願っている。
とある週刊誌から「岩月教授事件」についての電話コメントを求められる。
HPにちょろっと書いたのを見とがめられたのである。
私はカウンセラーでもないし、イワツキ教授本の愛読者でもないので、事件についてはコメントのしようがない。
とりあえず、「転移」というのはどういうものであるかについてのフロイトの説を祖述する。
Ubertragung とは「置き換え」「翻訳」「すり替え」のことである。
フロイトはこう書いている。
「われわれが治療効果を上げえているのは、われわれがまさに、無意識を意識に置き換え、すなわち無意識を意識に翻訳するからなのです。われわれは無意識的なものを意識的なものに変えることによって抑圧を解消し、症状形成のための条件を取り除き、病因となる葛藤を、なんとか解決できるに違いない正常な葛藤に変えるのです。われわれが患者の心の中に引き起こすのは、この一つの心的変化だけなのです。」(懸田克躬他訳、『精神分析入門』、人文書院、358頁)
この「すり替え」が「転移」と呼ばれる治療プロセスである。
患者は分析の過程で必ず分析家に対する激しいエロス的感情を経験する。
「グロテスクに不釣り合いな場合」(白髪の老女が孫ほどの分析家に対して、少女が祖父ほどの年の分析家に対して、ほとんど同じ種類のエロス的関心を抱く)が頻発することから推して、これは分析家と患者の個人的な好悪のレベルとは違う、構造的なエロスであることが知られるのである。
それゆえ、フロイトはこれを「病気そのものの本質に最も奥深いところで関連している現象」だと認めることになった。
徹底的にプラグマティックな人間であったフロイトは、転移の「原因」には興味を示さず、「結局そこからどういう利益が引き出せるか」ということだけに関心を集中させた。
そして、治療の障害と思われたこの転移を利用して、患者の「古い葛藤」を「新しい葛藤」と「すり替え」、「新しい人為的神経症」を作り出すことでこれを操作するという画期的な分析方法を着想したのである。
だから、岩月教授の事件の場合でも、そのカウンセリングが成功的に推移している場合には、必ずクライアントの側には「グロテスクなほど不釣り合いなエロス的情愛」が一時的に現出したはずである。
それが治療の不可避のプロセスである以上、それをスキャンダラスに報じるのは的はずれなことである。
岩月教授の治療原理を基礎づける人間観についても、それがたいへんチープでシンプルな「物語」であることについて記者さんから疑念が呈された。
だが、こう言っては失礼だが、「チープでシンプルな物語」の方が、ほとんどのクライアントにとっては「リッチで複雑な物語」よりも受容しやすいのである。
ならば、カウンセラーが提示する「健康」や「幸福」のイメージが単純なものであればあるほど治療効果が高いということがあっても、少しも不思議なことではない。
岩月教授の問題は、カウンセリング方法そのものの原理にかかわる問題というより、個別的なケースにおける「操作ミス」、「技術的失敗」、「さじ加減の間違い」というふう解釈する方が適切ではないか、と申し上げる。
教授会の間にK田くんの修論の草稿をチェックする。
同性愛論である。
セクシュアリティとかジェンダーとかいうものを正面から論じるのはたいへんに難しい。
いつも申し上げていることであるが、たとえば「ジェンダー・フリー論」ということを言う人は「ジェンダー」のことばかり言っている。
「ジェンダー間に社会的な区別をしてはならない」という議論をしている方にむかって、「そうかなあ」というような反論をさしはさむとただちに「あなたは男だからわかんないよの!」という言い方をされる。
まず自分がジェンダー的に何者であるかどうかを言明しないと、ジェンダーフリーについては語らせて頂けないのである。
あの、それって、ジェンダーボーダーを解放するんじゃなくて、ジェンダーボーダーむしろ強化してません?
以前に書いたことであるが、もう一度採録する。
「ジェンダーフリー論」は「学歴無用論」と構造的に似ている。
学歴で人を差別するのはよろしくない、というので、「学歴無用の会」というものができた。
ところが、学歴によって人間的に損なわれる仕方はその人の学歴によって異なる。
東大出の人が「なまじ学歴があるばかりにスポイルされている」仕方と、中卒の人が「学歴がないばかりに差別されている」仕方は同列には論じられない。
それゆえ、この「学歴無用の会」では、会員全員は胸に最終学歴を大書したプレートを着用することを義務づけられている・・・
ジェンダー論を聞くたびに、私はこの「学歴無用の会」を思い出す。
K田さんの同性愛論にもおなじ種類の危うさを感じる。
「男性とは何か? 女性とは何か?」という根源的な問題を掲げているわりには、そこここに不用意に「男性は・・・一方、女性は・・・」という書き方がみられるからだ。
性差の問題を論じるときの難点は、「性差」が何であるかについての一義的定義が確定されていないにもかかわらず、論証の過程では「男性」「女性」ということばがあたかも既知のものであるかのように使われることである。
というか、使わないと話がぜんぜん進まない。
だから、この種のテクストでは「女性性とは何かが定義不能であるということは、女性自身にもよく理解されていない」というようなあっと驚く論点先取の文章に出会うことだって珍しくない。
「一万円にどうして価値があるか分からない? ははは、バカだなあ。一万円くれたら教えてやるよ」
という文て変でしょ?
え? 変だと思わない。
困ったな。
昔、バタイユとサルトルの比較論を書いた院生がいた。
サルトルはバタイユの「非知」という概念がついに理解できなかったというような話であった。
だが、「サルトルはついに『見える、見えない』という光学的な比喩の枠組みから出ることができなかった。ここがサルトル哲学の盲点である」という結論にはびっくりした。
困るでしょ?
え、分からない?
あ、そうですか。
そういう人がたくさんいるから、世の中案外平和なのかもしれないね。
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(2004-12-18 11:36)