二日続きのオフなので、がしがしと原稿を書く。
『文學界』に連載が始まった「私家版ユダヤ文化論」の2月号締め切りが年末進行で前倒しになっているので、今日中に送稿しないといけない。
もう150枚以上書きためてあるので、別に焦ることはないのであるが、いざ「第二回」分の原稿を取り出して眺めてみると、説明的であまり面白くない。
ユダヤ人2000年の歴史を踏まえてのユダヤ文化論である以上、ある程度歴史的事実を列挙することは避けがたいのであるが、そういうことを中立的に記そうすると、どうしても教科書的記述になってしまって、書いた私でさえ、読み返すとあくびが出てくる。
書いた本人があくびをこらえて読むようなものを有料読者に差し出してよろしいものであろうか。
よろしいはずがない。
しかたがないので、歴史的記述を一段落書くたびに、「てなことを世間では申しますが、なに実はこれには裏がありまして、ま、ここだけの話でやんすが・・・」というような半畳を投げ込んで、読者諸賢が眠り込まないように、いろいろと工夫を凝らす。
そうこうしているうちにとっぷり日が暮れる。
私は午後7時になったら、どんなことがあっても仕事を切り上げることにしているので、原稿の続きは明日の朝ということにして、お買い物に出かける。
コープのレジで並んでいたら、ハルちゃんのお母さんに声をかけられる。
「あ、るんちゃんのお父さん!」
「あ、ハルちゃんのお母さん!」
という挨拶をするふたりは、ともに相手の姓がとっさには思い出せないのである(ふたりとも途中でちゃんと思い出した)。
夜は「マーボードーフ麺」という過激に辛い食物。
そのまま「うううう」と腹をゆらしながら「娯楽の殿堂」に移動して、『恋愛適齢期』を見る。
これは邦訳タイトルが大変よろしい。
なにしろ原題が Something’s gotta give であるから、いつものように手抜きで『サムシングズ・ガッタ・ギブ』なんてタイトルにした日には客が一人も来ないであろうから、やむを得なかったのであろう。
しかし、やむを得なければ、それなりにちゃんとタイトル付けられるんだから、ふだんもそうしていただきたいものである。
ジャック・ニコルソンとキアヌ・リーブスに同時に愛される調子のいいおばさんの役をダイアン・キートンが楽しそうに演じていた。
これって、きっとバツイチ・シングル・子どもも独立もうすぐ還暦のアメリカ女性のある種の夢なんだろうな。
こういう「虫のいい夢」を平気で図像化してしまう節度のなさがハリウッド映画の最大の魅力である。
小池昌代さんからメールにご返事が来た。
さすが、美貌の女流詩人のメールは字体や文字の配列まで美しい・・・
「ワルモノではありますが、怪しい者ではありません」というネット上からの説得が奏功したのであろうか、ちゃんと住所も電話番号も教えていただいた(!)
小池さん、ありがとうございました。
新年早々に出ます『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)から順次お送りさせていただきます。
小池さんの詩集もエッセイもさっそく買って読むことにしよう。
高橋源一郎さんからもご返事が来た。
本願寺出版社から出る『インターネット持仏堂』の帯文をお願いしたのである。
高橋さんは死ぬほどお忙しい身の上なので、ゲラを送りつけて「全部読んでから帯書いてね」というような図々しいことはお願いできない。
しかし、高橋さんはかつて「私は出だしの五行を読んだだけで、その本のクオリティを判定することができる」と豪語されたことのある炯眼の批評家である。
五行読んでいただければ、帯くらい楽勝であろう。
とりあえず「まえがき」と「あとがき」だけ送稿する。
「こんな感じの本なんですけど、帯お願いできますか?」とメールしたら、すぐにオッケーのご返事をいただいたのである。
「帯」の件、喜んで。内田先生が参加されているものなら、「5行」どころか、「1行」も読まずとも傑作と決まっております。なんなら、先生が帯を書かれて、それに、ぼくが署名しても……(って、いくらなんでもやりすぎか)。
「やりすぎ」どころか、実は私も本願寺のフジモトくんも同じことを(一瞬だけ)考えたのである。
私が考えた高橋さんのコピーは
「まだ読んでいないのであるが、そのうち読むはずである。面白いかどうかわからないけれど、たぶん面白いはずである」
というものである。
真実のみを語っていて間然するところがない名コピーだとは思うのであるが、惜しむらくは文学の香りにいささか欠けているのである。
高橋さんがどんなコピーを付けてくれるか、わくわくして待っているのである。
アナグラムについて書いた頁にパリにいる中野さんという方がコメントを付けてくれた。
返事を書こうと思ったけれど、またもサインインがはねかえされてしまった(困ったね)
しかたがないので、ここに貼り付けておくのである。
中野さま
大分大学といえば・・・Y田くんの同僚ということですね。おまけにブルーノくんともつながりがあるとは。
What a small world!
アナグラム論を私が取り上げたのは、時間というのはどういうものだろうという素朴な疑問からです。
私たちがセンテンスを構築する場合に、実際にはどのような時間の流れの中で語が配列されているのか、きちんと説明してくれたものを私はまだ読んだことがありません。
私にわかっているのは、私たちが因習的に「過去」とか「未来」とか呼んでいるものを、直線的で均質的な流れの上の点というふうに考想している限り、時間と他者性の問題は解決できそうもないというです。
いろいろな言語モデルがありますが、私の偏見かも知れませんけれど、どれも「無時間モデル」というか、「空間的表象」に依存しすぎているような気がするんです。
普遍文法にしても、しばしば個別言語の「下」に普遍言語があるというあらわに空間的な表象をもって語られますし。
でも、ほんらい時間は空間的には表象できないもののはずです。
言語は原理的には時間的現象です。
時間の中で語は離合集散し、意味は生成しています。
その時間の運動がどのようにして「他者」や「善」とリンクするのか(これは間違いなくリンクするはずなんです、というか他者性や善性という概念そのものが時間的な現象なんですから)、それが私がこのところ考えていることの一つです。
中野さんも同じ主題について考えているとしたら、このへんが現代思想のぐっと濃い目の「point chuaud」なのかも知れませんね。
ではまた
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(2004-12-16 15:38)