本願寺出版社のフジモトさんご推奨の池谷裕二『進化しすぎた脳』(朝日出版社)を読む(ほんとうは、本を読む時間があったら『インターネット持仏堂』の校正をしなければいけないのであるが)。
たいへんにおもしろい。
このところ時間があっちへ行ったりこっちへ行ったりという「時間のゆらぎ」のメカニズムについてずっと考えていたのであるが、ちょうどそれにどんぴしゃの事例を脳生理学の最先端の知見としてご紹介していただいた。
まず最初に次のリストをご覧いただきたい。
「苦い、砂糖、クッキー、食べる、おいしい、心、タルト、チョコレート、パイ、味、マーマレード、甘酸っぱい、ヌガー、イチゴ、蜂蜜、プリン」
ここには16のことばが並んでいる。
これを5秒間ご覧いただきたい。
次にちょっとだけ違う話をする。
19世紀の中頃、鉄パイプが顎から刺さって頭頂部に抜けてしまったフィネアス・ゲイジの話。彼は奇跡的に命を長らえたけれど、前頭葉に傷を負ったために、事故以後人格変容を来してしまった(むかしは几帳面で上品な人だったのに、事故の後、だらしなく下品な人間になってしまった)。
この症例がきっかけになって、人間の個性や人格といわれる部分が脳の前頭葉に局在しているのでは・・・という仮説が立てられるようになり、以後の解剖学はおおいに発達したのである。
という話でちょっと間を取っておいて。
では、さきほどのリストを思い出してください。
あのリストの中にあった語は次のどれでしょう。
「硬い、味、甘い」。
・ ・・・
この実験では、被験者たちは全員「甘い」と答えた。
でも正解は「味」。
これは脳がリストの名詞を記憶するときに、その共通点を選び出して自動的に「ファイル」を作り、そこにまとめているからだ。
そのファイル名が「甘いもの」であるが、それはリストには存在しない語である。
このような作用を「汎化」と呼ぶ。
対象に共通する一般的性質を抽出して、それを「手がかり」として記憶するという、いわば情報の階層化の自動プロセスのことである。
「汎化」はほとんど自動的になされており、私たちはそれを意識的に統御することができない。
そのようにして、私たちは「そこにないもの」を情報として記憶することになる。
もう一つは時間の話。
眼から入った視覚情報は視覚野で解析される。
そのとき、形、色、運動の情報解析には時間差がある。
まず色が処理され、ついで形が処理され、最後に運動が処理される。
だから「赤いりんごが転がっている」という記述は実は正確ではない。
「赤」と「りんご」と「転がり」がわずかな時間差をもって順次脳に入力されて、それらを総合して、「赤いりんごが転がっている」という情景が構築されているのである。
つまり厳密に視覚野で起きている解析プロセスを言語化すると
「いま目の前に転がっている物体があるんだけど、それはちょっと前にはリンゴであって、その直前には赤い色をしていました。でもいまはどうか分かりません!」(142頁)
ということになる。
文字の場合はもっと時間がかかる。
文字やことばが眼や耳に入ってきてから情報処理されるまでには、少なくとも0.1秒、ふつうは0.5秒かかる。
だから、私たちが「いま」生きているように感じているのは、ほんとうは嘘で、実はこれは「0.5秒前の世界」なのである。
池谷さんのこの説明を読んでいるときに、ふと「トマトソース」に仰天した北杜夫の経験の意味がどういうものだったか少し分かった。
北杜夫の話というのは、前にも紹介したけれど、こんなエピソードだ。
北杜夫は若い頃にトーマス・マンに心酔していた時期があった(「杜夫」というペンネームも、もともとは『トニオ・クレエゲル』から借用した「杜二夫」だったそうである)。トーマス・マンのことばかり考えて暮らしていたある日、北杜夫は所用で降り立った田舎の駅前で、突然「ぎくり」として立ち止まった。
どうして「ぎくり」としたのか、その理由がとっさにはわからなかったが、何かを見て衝撃を受けたことだけはたしかである。そこで、ゆっくりと駅前の寂しい風景をもう一度眺めわたしてみたら、酒屋らしき店に「トマトソース」という文字が見えて、「ぎくり」の理由がわかった。
北杜夫は「トマトソース」という「単語」を一挙に読んだわけではない。そうではなくて、「ト」「マ」「ト」「ソ」「―」「ス」という6つの図形を連続的に視覚野に入力したのである。
そして、たぶん最後の「ス」まで来たところで、0.何秒か前に見た「ト」と「マ」と「―」の文字順をひとつだけ入れ替えて、彼にとって重要な意味を持つ「トーマス」という文字を構成した。
ここまでは過去の再構成である。
でも、次はすこし違う。
「トーマス」と来れば、あとは「マン」が続くしかない。
ここから脳は現実の経験と記憶を操作しはじめる。
一度使ってもう「使えない文字列」に分類されたはずの「マ」をもう一度「未使用文字リスト」に登録しなおし、さらに「ソ」を「ン」と誤読するという、ふたつの「詐術」を行ったのである。
つまり「トーマス」を読んだときの脳の作用と、「マン」を読み出した脳の作用では、「犯意」の濃淡が明らかに違うのである。
「トーマス」はかなり自然な誤読であるけれど、「マン」を読み出した誤読はそれに比べると相当に「無理がある」からである。
これは「こうなったら、ぜったい『マン』を読み出すぞ」という脳の決断と意欲なしには起こり得ない種類の半ば意図的な誤読である。
前回の朝カルで出したアナグラムの例文をもう一度解析してみよう。
ジョナサン・カラーはボードレールの次の詩句のうちにアナグラムを見つけた。
Je sentis ma gorge serrée par la main terrible de l'hystérie.(僕は咽喉がヒステリイの凶暴な手で締めつけられるのを感じた)
だが、sentis の is と terrible の terri で「isteri」(ヒステリー)の音を得たので詩句の末尾の「hysterie」の語がボードレールの脳内に「浮かんだ」というクロノロジックな説明でアナグラムの説明は尽くされているだろうか。
ここにも二重の操作がかかわっているのではないだろうか。
先行する音によって次の語が導き出される自然な連想だけではなく、もっと強引な作為的な脳の活動がアナグラム形成にはかかわっているのではないか。
それを証明してみたい。
ボードレールの詩のそのすぐ次の詩句はこうなっているから。
道化や阿呆は、風や雨や太陽に曝されて硬ばった顔の筋を引きつらせ、自分の効果を十分に承知している喜劇俳優の落ち着きを見せながら、例えばモリエール風の古めかしい、重苦しい戯談や慣用の台詞を吐き散らしている。力持ち達は隆々たる筋肉を誇示しながら、猩々のように額もなければ頭蓋骨もない頭を振り立て、今日の晴衣にもと昨日洗濯した肉襦袢を着込んで、得意然と歩き廻っている。(『バリの憂愁』、福永武彦訳)
Ils lançaient avec l'aplomb des comédies sûrs de leurs effets, des bons mots et des plaisanteries d'un comique solide et lourd, comme celui de Moliere. Les Hercules, fiers de l'énormite de leurs membres, sans front et sans crâne, comme les orangs-outangs,se prélassaeint majeusteusement sous les maillots lavés la veille pour la circonstance.
この詩句の中に強い語感をもつ語は三つある。
「モリエール」と「力持ち」(原文では「ヘラクレスたち」)と「猩々」(オランウータン)である。
「モリエール」を構成する「モ」と「リ」の音は mots「モ」と solide「ソリッド」から得られる。
不足しているのは「エール」の音であるが、それはすぐ次の文の「ヘラクレス」(Hercules エルキュール)で補填される。
でもこれは「エル」であって「エール」じゃないから・・・ついでにもひとつ fiers 「フィエール」をくっつけて「モリエール」の音を完成させる。
この操作は「モ」と「リ」の音の自然さにくらべると強引さが目立つ。
「エル」「エール」と同種の音が二度使いされている、というあたりにどうも作為性が感じられる。
おそらく「ヘラクレス」は「モリエール」のアナグラムを完成させるために道具的に使用された名詞なのである。だから、「ヘラクレス」のアナグラムは詩句内には存在しない。
もうひとつ語感の強い語である「猩々」(オランウータン)のうち「オラン」を構成する音は enorimite 「エノルミテ」と sans「サン」から得ることができる。
「ウータン」は sous 「スウ」と circonstance「シルコンスタンス」から得られる。
ここはみごとに「オランウータン」のうち「オラン」のアナグラムが前に、「ウータン」のアナグラムが後にきっちり配列されている。
ここにもなんとなく作為性が感じられる。
もちろんここでいう作為性というのは「詩人」の作為ではない。
詩人の「脳」の作為である。
つまり、こういうことではないか。
詩人はすらすらと詩を書いているうちに「モ」と「リ」の音を得て、勢いで「モリエール」という語につないでしまった(ここまでは北杜夫における「トーマス」に近い、わりと自然な連想プロセスだ)。
でも「エール」が足りない。
そこで次の語に「エルキュール・フィエール」を置くことで補填した(これは「マ」の二度読みとか「ソ」と「ン」の意図的な読み違えに近い作為的操作だ)。
さらに「オ」と「ラン」ときたので、「オランウータン」が得られた(これは自然な連想)。
でも、「ウータン」の不足分を補うための「スウ」と「シルコンスタンス」を要請したときには、それらの語が選び出された語群は「オランウータン」より前に配列された語が選び出されたときの語群よりもかなり限定的なものではなかっただろうか。
こうして、アナグラムというのは「音による自然な連想」と、その連想を与件とする作為的な「語の並べ替え」(メタ連想)という階層性を異にする二種の言語活動の絡まり合いではないか・・・という仮説がここに成り立つのである。
脳の操作性が深く関与しているのは、おそらくこの「メタ連想」の工程である。
晩年のソシュールは一般言語学への興味を失い、アナグラム研究に没頭して「狂気」を疑われた。
残念ながら、ソシュールのアナグラム論がどういうものだったのか、主題的に研究したものを私は知らない(私が知らないだけで、ちゃんとあるのかも知れないけれど)。
ほとんどのソシューリアンはアナグラム論に関心を示さない。
たぶんそれはアナグラムの構造を理解するためには、脳が言語と時間をどういうふうにいじっているかについてかなり大胆な仮説を立て、私たち自身の時間概念、言語概念をかなり根源的に改鋳する必要があるからではないかと私は思う。
この点について池谷さんの本はたいへん豊かなヒントを含んでいた。
彼の他の本も読んでみることにしよう。
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(2004-12-10 14:52)