ルーティン主義の復活

2004-12-09 jeudi

朝日の石川記者が『AERA』を送ってきてくれたので、ぱらぱら読む。
「ルーティンはたいせつだ」というお話で特集を組んでいる。
基本的に毎日おなじことを繰り返す。
一度始めたことは止めない。
年中行事は厳密に実施する。
などなど、毎日が同じことの繰り返しがいかに生存戦略上すぐれた生き方であるかをウチダはひさしく称揚してきたのであるが、これまでそういうのは「人間として本来的でない生き方」として白眼視される傾向にあった。
私見によれば、「毎日が同じことの繰り返し」であるのを「よくないこと」というふうに決めつけるイデオロギーが支配的なものとなったのは、1970 年のなかばほどのことである。
メルクマールとなったのは、かのポール・マッカートニーが「アナザーデイ」という曲を発表したことにある。
ご存じの方も多いと思うが、この歌は「It 's just another day 毎日おなじことの繰り返しでは、もう死んでいるのもおなじだわ」という30代OLの愚痴を歌ったものである(ポールというのは、意外なことにこういう「下世話」な歌詞のものをよく書く人なのである。ジョン・レノンの地球的スケールの歌詞とそこが違う)。
しかし、これはある意味で画期的なことであった。
というのは、それまでのゴールデン・エイジ・オブ・アメリカン・ポップスの歌詞というのは、基本的に「ふつうの高校生がふつうに暮らして、クラスメートや隣の家の女の子とちょっと目が合ってどきどきしたり、別の男の子と仲良さそうにおしゃべりしているのでやきもきしたり」というような、どーでもいい歌詞ばかりだったからである。
それを軟弱とかふぬけとかいろいろ批判される方もあるだろうが、60年代前半までのアメリカン・ポップスの歌詞は「何も特別なことが起こらない日常生活の中でのちょっとしたささやかなどきどきわくわく感」というようなものをていねいに掘り起こしてきたのである。
それがブリティッシュ・ロックの侵入によって一蹴された。
理由は簡単。
アメリカのハイスクールの少年少女はリッチだったけれど、イギリスの少年少女はビンボーだったからだね。
「金がねー、車もねー、仕事もねー、バカな友達と下品なガールフレンドしかいねー、あーつまらねー」というイギリス・ワーキングクラスのビンボーな少年の痩せた生活感覚がロックの歌詞のうちに浸透し、それがパンク以後のロックミュージックの歌詞のドミナントな「型」となってしまったのである。
たしかにそんなルーティンであれば、「今日もまた昨日と同じ」というのはたいへんに切ないことであろう。
できることなら、「明日は今日とは別の日」であっていただきたいと念じるのも無理からぬことである。
そして、の80-90年代のバブル期が「小さいけれど確実な幸せ」を求めるルーティン志向をほとんど根こそぎにした。
難波江さんが『恋するJポップ』で活写したように、80年代以降のJポップの歌詞は「不毛な日常」へのいらだちと、そこからのやみくもな「脱出」の欲望と「刺激」の追求を歌い続けてきた。
そのようにして日常生活の中の「ささやかだけれど大切なこと」に穏やかなまなざしを向けるという知的態度にとっては長く不遇な時代が続いたのである。
しかし、「ルーティンを守ることは緩慢に死ぬことだ」というラディカルな「変化主義」そのものが定型化して可塑性を失い、変化を求め刺激を追う生き方そのものが少しの変化も新たな刺激ももらさないものであることがわかってきた21世紀になって、ようやく40年ぶりに「ルーティンって、やっぱりいいよね」というルーティン再評価の兆しが見えてきたのである。
この趨勢は人類学的に言えば、レヴィ=ストロースのいう「熱い社会」から「冷たい社会」へのシフトというふうにとらえることもできるだろう。
グローバリズムに抗して久しくルーティン墨守主義の孤立無援の戦いを展開してきたウチダとしては、まことにうれしい限りである。
『AERA』をぱらぱらとめくっていたら、「アキハバラ萌えるバザール」という特集記事が目に入った。
あら、アキハバラ。
もしかして・・・と頁をめくると、これはびつくり。
「秋葉原でベンチャー企業の集まるビル、リナックスカフェを運営する平川克美氏は、ITセンター構想を批判的にとらえている。『秋葉原が持っているのは怪しげなものを含めて雑多に売られているバザール的魅力。ピカピカのビルはそんな魅力をこわし、どこにでもある待ちにしてしまうからもしれない。」
東京ファイティングキッズ、『AERA』12月13日号紙上で接近遭遇。
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