ゼミ最終回。こういうふうにゼミ室でみんなとわいわいおしゃべりするのもこれが最後。
コミュニケーション感度の高い学生たちばかりで、私もとても楽ちんなゼミであった。
最後なので、授業評価アンケートに記入してもらう。
例年この調査項目の中の「あなたがこの授業で得たもの」というところに「雑学」とか「豆知識」とか「トリビアな知識」というようなことを書く学生がいるので、そういうことを書いてはいけませんとあらかじめ牽制しておく。
諸君はどうも「雑学」と「教養」の違いをご存じないようであるので、その点について確認をしておきたい。
雑学とかトリヴィアクイズのようなものは、単一のフレームの中に収納可能である。
どれほど大量な知識であっても、「雑学」というラベルを貼った一つの「箱」に収めることができる。
「教養」とはそのような数値化できる知識や情報のことではない。
そうではなくて、まったく関係のない「箱」に入っている、ディレクトリー階層をまったく異にする情報単位のあいだの「関係性を発見する力」である。
「雑学者」には「知っている」か「知らない」かの二つのことばしか知らない。
一方、「教養者」がしばしば口にするのは次のことばである。
「それって、もしかして『あれ』のことじゃない?」
グレゴリー・ベイトソンは『精神と自然』で、こんな小話を紹介している。
ある科学者がスーパーコンピュータに「コンピュータは人間と同じように思考できるか?」という問いを与えた。
コンピュータは演算の末にごとごとプリントアウトした紙片を吐き出した(ベイトソンの時代のコンピュータにはまだディスプレイというものがなかったのである)。科学者が駆け寄ってみると、そこにはこう書いてあった。
That reminds me of a story.
このセンテンスを意訳すると次のようになる。
「それって、もしかして『あれ』のことじゃない?」
「『あれ』って、何?」
「あのね、ちょっと長い話になるけど、いいかな?」
ごらんの通り、この「対話」には有意の「情報」は含まれていない。
ここに示されているのは、ある情報単位と、それとはふつうは関連づけられることない別の情報単位とのあいだに「見えないリンケージ」があり、関連づけられないものを関連づけるためには、時間をかけて手持ちの知的スキームの「組み替え」をしなければならない、ということである。
だから、「教養が邪魔をする」というのはほんとうなのである。
雑学はいくらあっても邪魔にならない(それは「箱」に収納できる)。
教養はあると邪魔になる(それは私たちの知的OSの絶えざるヴァージョンアップを要求するからだ)。
私が諸君に二年間のゼミを通じてお伝えしてきたのは、ただひとつ。あらゆる論件について、「これって、もしかして、『あれ』じゃない?」をもって対処する、ということである。
以上が私の諸君への「はなむけのことば」である。Bonne chance
大学院はウッキーの発表で「アメコミ」。
私はアメコミというものに全然関心がないし、これをアートとしても批評としても評価しないという立場なので、ウッキーの報告と関係なく、日米マンガ比較という論点から「あれって、これじゃない」的妄説を伸べさせて頂く。
繰り返し申し上げているとおり、アメコミの「スーパーヒーロー」はすべてアメリカの「セルフイメージ」である。
それは「生来ひよわな青年」がなぜか「恐るべき破壊力」を賦与され、とりあえず「悪を倒し、世界に平和をもたらす」ために日々献身的に活動するのであるが、あまり期待通りには感謝されず、「おまえこそ世界を破壊しているじゃないか」という人々の心ない罵詈雑言を浴びて傷つく・・・というものである。
『スパイダーマン2』がアメリカのイラク侵攻の心理劇化であるということに気づいている人はあまりいない。
一方、日本の戦後マンガのヒーローものの説話的定型は「生来ひよわな少年」が、もののはずみで「恐るべき破壊力をもったモビルスーツ状のメカ」の「操縦」を委ねられ、「無垢な魂を持った少年」だけが操作できるこの破壊装置の「善用」によって、とりあえず極東の一部に地域限定的な平和をもたらしている、というものである。
これは『魔神ガロン』から『鉄人28号』、『ガンダム』、『デビルマン』、『マジンガーZ』を経て『エヴァンゲリオン』に至る「ヒーローマンガの王道」である。
この「恐るべき破壊力をもったモビルスーツ状のメカ」は日米安保条約によって駐留する在日米軍であり、それを「文民統制」している「無垢な少年」こそ日本のセルフイメージに他ならない。
1950年代の日本のメンタリティをもっともみごとに映し出している『鉄人28号』において、「鉄人」は米軍(および創設されたばかりの自衛隊)を表している。だとすれば、その操縦を委ねられる「戦後生まれで、侵略戦争に荷担した経験をもたない無垢な正太郎少年」は、論理の経済からして、「憲法第九条」の表象以外にはありえないのである。
授業を終えて、ソッコーで三宮へ。
本日は『寝ながら学べる構造主義』5万部突破記念祝賀会(sponsored by 文藝春秋)。
嶋津さん、ヤマちゃん、『文學界』の山下さんとともにステーキハウス KOKUBU においてシャンペンで乾杯(これは「お店からです」と国分さん。ごっつぁんです)。ただちにワイン、ビールなどを摂取しつつ、最高級神戸牛のステーキをぱくぱくと嚥下する作業に取りかかる。一同しばし無言。
満腹してエネルギー充填を果たした一同は元気いっぱいで時間論、身体論をがしがしと交わしつつ、Re−setへ河岸を変え、イワモト秘書、ドクター佐藤、元美人聴講生E田さん、青山さんをまじえて、さらに午前1時まで「爆話」。
7時半から5時間半しゃべりっぱなし。
さすがに疲れました。
嶋津さん、ごちそうさまでした!
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(2004-12-08 12:47)