身体の逆説

2004-12-04 samedi

ネットで自殺の相手を求めて、知り合った数名が車の中で練炭による一酸化炭素中毒で死ぬ、というのが「はやり」らしい。
ネット上で「相手」を募り、ランデブーが成就すると「では、さっそく」ということで、自己紹介もそこそこに(あるいはまったく抜きで)「ことに及ぶ」ということになると、これはもう一つのネット上のマッチメーキングと酷似している。
ネット上で成立したコンタクトが、現実の場面での生身の人間同士の出会いにまで発展しうるケースは、なぜ「自殺」と「セックス」に限定されているのだろう。
もちろん、それ以外にも、ネットでの買い物とか、ネット上で成立した「同好の士」たちとの「オフ会」といった多様な人間的ネットワークは存在する。
けれども、ネット上での物品の売り買いや情報やデータのやりとりは、「交換」ではあるけれども、そこには「生身」の介在が必要とされていない。
「オフ会」というのも、ネット上で構築されたヴァーチャルな人格同士の出会いのことであって、しばしば人々は「ハンドルネーム」で互いを呼び合う。
ネット上で始まった関係がリアルな身体の登場を切実に必要とする場合というのは、おそらく「出会い系サイト」と「自殺系サイト」の二つしかない。
この二つの「出会い」の特徴は、「リアルな身体の登場」が、まさに当の身体に抹消符号を引くために要請されている、ということである。
「出会い系」セックスというのは、金銭の授受を伴わないケースが多い。つまり、これはもう「売春」でさえない。
売春であれば、「売られる身体」は擬似的には商品として、つまり一定の交換価値のあるものとして扱われている。
しかし、出会い系サイトが提供する「無償の性行為」においては、身体はもはや商品ではない。それはただ、「使用される」ためにだけ、そこに無管理・無保護の状態で放りだされるのである。
おそらく人類史上ここまで性的身体の交換価値が下落したことはないだろう。
セックスというのは身体的快楽の追求なんだから、そこで身体が軽んじられているというのは話が通らないと考える人がいるかも知れない。
だが、セックスの快楽というのは、ほとんど「脳」の作用である。
現に、ポルノグラフィーはいかなる身体的快楽も提供しない。それはただ脳に図像や言語記号を送るだけである。それを「快楽」に読み替えるのは脳の仕事である。
同じように、倒錯や変態はどのようなものであれ、「ジェンダー構造」抜きには存立しえない。それらは純粋に「記号的なふるまい」「社会的な態度表明」である。
セックスは「シニフィアン」である。
性的快楽を極限まで追求するものは、だから必ず身体固有の価値を否定することに至り着くのである(ジル・ド・レーとか阿部定とか切り裂きジャックとか)。
出会い系セックスとネット自殺は、ともに「身体固有の価値を損なうこと」をまっすぐに目指している点で深いところで通じている。
むしろ私が興味を引かれるのは、「身体固有の価値を損なうこと」を目指す人々が、ともにそのときに「証人の身体」を要請せずにはいられないということである。
セックスにおいても集団自殺においても、自分と同じように自分の身体を軽んじる人間がその場に居合わせることを、彼らは要求する。
私はこれが「人間の身体性の逆説」ではないかと思う。
脳は身体をいくらでも記号的に貶下することができるけれど、それを物質的に抹消することだけはできない。
身体を「不可能なもの」として抹消するためには「可能態としての」身体が必要だ。
自殺するためには、自殺するだけの体力が要る。
だから、自殺しようとする人間は、その日に備えて最低限の「体力作り」をすることを義務づけられる。
共同性を否定しようとする人々は、その「共同性を否定するふるまい」を他ならぬ「否定のふるまい」として認知してもらうために「共同性」を要請する。
それは「おれは一人だ。だれもおれのことばを理解しない」と独語する人間が、それでもなお日本語の文法に則り、日本語の語彙を用い、日本語で音韻として聴取可能な分節音を発することで、「それを聴き取る人間」が権利上存在することを自明の前提にしている事況に端的に示される。
それと同じように、身体固有の価値を否定しようとする人々は、身体固有の能力や機能を活用することなしにはその否定行為を成就することができない。
共同性を否定するものはそのふるまいを「共同性否定のみぶり」として認知してくれる共同性を要請し、身体の価値を否定するものは、その否定を貫徹するために身体の介助を必須とする。
出会い系セックスとネット自殺は、共同体と身体、生と死にかかわるこの極限的な逆説を私たちにつきつけているように思われる。
これらの事例は「ここまでゆくと、もうこの先はない」という「オフ・リミット」の指標のような気が私にはするのである。
人類学が教えてくれるのは、人間は「いかに生きるべきか」についての実定的なガイドラインを作れるほど賢くはないが、「このような生き方をすると、後がない」という「極限的事例」を並べて、危険標識に見立てることができる程度には賢いということである。
「ふたつの標識の間」
そこに私たちは生きており、そこしか私たちの生きることのできる場所はない。
それゆえ私は「標識作り」に命をかける人々に、実は一抹の敬意を禁じ得ないのである。
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